『火まつり』
鉄道の開通によって崩壊が始まり、今は道徳的にも堕落しているばかりか、人々の悪意に満ちた閉鎖的共同体の中で、崩壊劇の終幕ともいうべき事件が起きるという筋立ては、ガルシア=マルケスのマコンドあるいは「町」を舞台とする一連の作品を連想させる。ことに事件の儀式性、時代の変り目という背景、主人公の死の宿命性などは『予告された殺人の記録』と多くの共通点を持つ。にもかかわらず、不均等な章分けやバルガス=リョサの「暴力」を感じさせる文体の使用によって、中上は先行するマルケスの小説を「脱臼」してしまった。このことは、ラテンアメリ力の作家とともにフォークナーに学びながら、独自の世界を創造しようとする中上の、ラジカルな方法意識と関わっている。主人公の達男は、舞台となる「二木島全体を睥睨するように建った池田の家が何代にも渡って貯えたワル」を体現する人物である。だがそのキャラクターは、浜村龍造のそれではなく、むしろ『千年の愉楽』の貴種、中本の血を引く男たちのそれに近い。崩壊劇の登場人物であると同時にその証言者でもある小悪党、良太との決定的な違いはそこにある。噂によれば、達男は、父親と母親が神仏に何事かを約束して授かった男の子なのだ。神でもないのに禁区で聖なる魚を釣ったり、山の頂上で小便をしてサカキにかけたりと、達男は並の人間にとってのタブーをいともたやすく破っていく。あるいはその好色性はとめどを知らない。にもかかわらず彼の行為には、道徳以前の無垢なところがあり、それはおそらく彼の神秘的な出自と関わっている。たとえば、達男がワルの仲間とともに猿を殺して食い、人々に戦慄を覚えさせる件りがあるが、その行為は、二木島の祭りに伝わる神事と重ね合わされることにより、古代の記憶を甦らせるばかりか、かつては神の替りをするものが切り刻まれたという言い伝えを挿入することで、達男の運命そのものが暗示されることになる。
達男が常人ではない、異種であることを嗅ぎつけているのが、キミコであり、彼を猿のように狩ることを企む良太である。良太には自分がそうする理由が本当には分かっていない。が、実は、彼は「神の替りをする者」としての達男を殺す儀式を、共同体を代表して執り行なうという役目を負わされているのだ。山中で川の水につかりながら、生命を与えてくれた神仏とともに死ぬことを神仏と約東する達男を目撃するのも、良太のその役目故である。禊ぎの最後のプロセスとして火祭りを終えた達男は一族もろとも心中するのだが、これは共同体から神仏が消えることを意味している。つまりこの共同体は、自然の象徴である杉を失なう替りに豚のような人工魚であるハマチを育てて、神仏無き時代を生きていかなければならないのだ。良太が耳にする銃声は、一つの時代の終焉と別の時代の始まりを同時に告げるものではなかったか。
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