作家論/作家紹介

中上健次『異族』(小学館)、『熱風』(小学館)、『時代が終り、時代が始まる』(福武書店)、『東洋に位置する―対談』(作品社)、他

  • 2023/08/02

中上健次と世界文学

中上健次の作品が論じられるとき、「文学史に残る作品」というクリシェがしばしば用いられる。多くの場合、『枯木灘』『千年の愉楽』『奇跡』といったところがその対象となるのだが、評者によってはこれら以外の作品を挙げるかもしれない。しかし、ここでいう「文学史」は決まって日本文学史を指している。そのため中上を日本文学の正典に祭り上げる一方で、ともすればナショナルな領域の内側に彼を封じ込め、毒を消して安全なものとしかねない。なぜなら、彼が書いてきたもの、書きつつあったもの、書こうとしていたものの総体は、制度としての日本文学史には収まり切らないばかりか、その制度そのものの保守性や欠陥を明るみに出してしまうからである。文学史というものを単なる過去帳とみなすことで割り切ってしまえば問題はない。が、もしも彼の文学(この言葉すら怪しくなってくる)を十全に記録しうる文学史があるとすれば、それはたとえば在日朝鮮人文学を従来と異なる視点で捉え直すような、新しいコンセプトによって書かれなければならない。実際、彼がめざしていたのは、文学そして文化におけるパラダイムの変換だった。今日ではポストコロニアルと呼ばれるような性格を持った文学を、彼はそうしたタームを使うことなく、日本の「南」であり闇の世界である紀州、熊野を立脚点としつつ、先駆的に書いてしまったのである。

枯木灘 / 中上 健次
枯木灘
  • 著者:中上 健次
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(437ページ)
  • 発売日:2015-01-07
  • ISBN-10:4309413390
  • ISBN-13:978-4309413396
内容紹介:
熊野を舞台に繰り広げられる業深き血のサーガ。日本文学に新たな碑を打ち立てた著者圧倒的代表作。後日談「覇王の七日」収録。

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千年の愉楽 / 中上 健次
千年の愉楽
  • 著者:中上 健次
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(291ページ)
  • 発売日:1992-10-01
  • ISBN-10:4309403506
  • ISBN-13:978-4309403502

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奇蹟 / 中上 健次
奇蹟
  • 著者:中上 健次
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(463ページ)
  • 発売日:2014-12-08
  • ISBN-10:4309413374
  • ISBN-13:978-4309413372
内容紹介:
高貴にして淫蕩の血に澱んだ仏の因果を背負う一統で、「闘いの性」に生まれついた極道タイチの短い生涯が語られる。崇高な世界文学。

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良質な作家の宿命は、過去を描きながら、同時代そして来るべき時代の思潮を先取りしてしまうことである。その作品を解釈しうる思想は後からやってくる。とはいえ、中上の作品世界を捉え切ることのできる思想など決して存在しないだろう。なぜならそのキャパシティがあまりに大きく、統一的なセオリーからはほとんどの要素がはみ出してしまうことが予想できるからだ。一九八四年、二度目の来日を果たしたボルヘスとの対談で、中上は、自分が長篇作家になった理由を、「少々の知識なんか関係ない、いわゆる夾雑物を全部入れてしまおう」と思ったことによると述べている。それはボルヘスが、長篇を好まぬ理由として、そこに書き手の意見や自然や環境の描写があることを挙げたのに対するひとつの反論なのだが、「それを読み解くには物凄い知識が必要だと、一瞬、絶望感にとらわれた」と中上の言うボルヘスの作品とは対照的な長篇、そしてその連作によって、彼はブラックホールのように貪欲に雑多な要素を取り込んだ。ボルヘスの作品あるいは彼自身が、秩序だった図書館であるとすれば、中上の場合は、巨大な未整理図書の収納庫に喩えられるかもしれない。哲学書とポルノグラフィが隣り合い重なり合っている無秩序な状態。だがそれは無秩序という別の秩序を備えた混沌でもあるのだ。それは意識的な実験の場であると同時に、予想外の化学反応が生じる場ともなる。しかもそこには失敗もあれば中途での放棄もある。中上の計り難さは、むしろそうした失敗や放棄にあるといえるかもしれない。つまりそれらが、彼が途方もないことに取り組んでいたことを想像させるからだ。完成したものなら、取り敢えずは「文学史」に取り込むことも可能だろう。だが完成しなかったもの(実際にはその方がはるかに多いのだが)を並べ上げる文学史など、どこを捜しても存在しないだろう。死の床に横たわっていた彼の頭の中にあった作品群(既に完成していたかもしれない)を扱うことは、残念ながら今のところほとんど不可能なのだ。もちろん、ヘミングウェイの『エデンの園』のように、編集者によって生み出される「遺作」もあるし、まったくの想像から生れた『風と共に去りぬ』『明暗』の続篇だってある。だが、中上の曼陀羅図を意識したという『異族』『熱風』に形を与えることのできる編集者がいるだろうか。つまり彼の意図を理解しかつそのスケールを損なうことなく編集できる人間が存在するだろうか。こう考えてみると、彼の大きさに今さらながら驚かされるのである。

異族―中上健次選集〈2〉 / 中上 健次
異族―中上健次選集〈2〉
  • 著者:中上 健次
  • 出版社:小学館
  • 装丁:文庫(952ページ)
  • 発売日:1998-10-01
  • ISBN-10:4094026126
  • ISBN-13:978-4094026122
内容紹介:
「路地」に生まれたタツヤ、在日韓国人二世のシム、アイヌモシリのウタリ-胸の同じ場所に、同じ形の青アザを持ち、互いの血を啜り合って義兄弟の契りを結んだ三人の屈強な男たち。そのアザの形… もっと読む
「路地」に生まれたタツヤ、在日韓国人二世のシム、アイヌモシリのウタリ-胸の同じ場所に、同じ形の青アザを持ち、互いの血を啜り合って義兄弟の契りを結んだ三人の屈強な男たち。そのアザの形に旧満州の地図を重ね見る右翼の大立者・槇野原は、空手の猛者である三人を前に、青アザの三勇士による満州国の再建を説く。右翼への傾倒と、三人の確執。自らの根源を求めての闘争と呻吟。数奇な運命に導かれるように次々と姿を現す青アザの「異族」たち。海を越え、民族を越えた混沌の中に日本の根を問い、文学の未知なる地平に挑んだ中上健次最後の超大作。

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熱風 / 中上 健次
熱風
  • 著者:中上 健次
  • 出版社:小学館
  • 装丁:単行本(505ページ)
  • 発売日:2015-11-10
  • ISBN-10:4093522383
  • ISBN-13:978-4093522380
内容紹介:
中上健次、未完の遺作が初単行本化! 1個3億円のエメラルド3個を携え、ブラジルから来日したオリエントの康の遺児タケオは、新宿で「中本」の一統である“毒味男”や、オリュウノオバの甥っ子… もっと読む
中上健次、未完の遺作が初単行本化!

1個3億円のエメラルド3個を携え、ブラジルから来日したオリエントの康の遺児タケオは、新宿で「中本」の一統である“毒味男”や、オリュウノオバの甥っ子である”九階の怪人”と出会う。

“毒味男”の一味は、最初に地上げ屋の斎藤順一郎を焼き殺したが、彼らの周囲をGメンが嗅ぎ回り始めので、一味はと共に紀州・新宮へ舞い戻る。そして、次の標的に土地の実力者・佐倉(この時、130歳近い年齢だが)を選ぶのだが……。

新たな抗争の予感を湛える長編。「千年の愉楽」の続編ともいえる未完作。「週刊ポスト」にて連載中に絶筆した。

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日本を描いても日本からはみ出してしまうこのような作家をどう扱えばいいのだろう。すべてをミニチュア化していくこの国では、小さなものに対する物差しや秤はあきれるほど豊富だが、大きなものそれもキングサイズとなるとほとんどお手上げという状態になってしまう。そこで批評は作品を解体し、切り刻み、ほどよい大きさになったところで虫眼鏡でのあら捜しを始める。もちろん中上には優れた短篇もあるし、俳句に対する関心もある。だが彼が勝負を挑むのはそのミニチュアの世界ではない。瞬間を蝶のようにピンで留めるコレクターではないし、世界をアレフに凝縮することに喜びを感じる作家でもない。

この国で困るのは、新しい作家が出てきて国内に先行する作家がいない場合、外国の作家と比較して、「日本の誰それ」、たとえば日本のカミュだとか日本のサガンという風にお家芸のコピーを作るわけだが、そうすると不均合を越えて、ほとんど滑稽になってしまうことだ。日本のプルーストしかり、日本のサリンジャーしかり。それは近代小説自体が、哲学や極端にいえば野球同様輸入品だからで、書く側にも批評する側にも、結局は模倣をやっているという意識がどこかにあるからだろう。あるいは作家も批評家も宣伝も完全に内側を向いてしまうこともある。そうなれば、もはや目的はただひとつ、国内で消費されることだけになり、外に開かれる可能性はまったく閉ざされてしまう。

この点で中上健次は例外的である。彼を日本のフォークナー、いやこの「日本の…」という表現自体が滑稽を誘うということもあるのでよそう。そうではなく、フォークナーやガルシア=マルケスと比較しても、決して浮き上がることがないのだ。インド出身の作家ウシャー・スブラミニアンに対するインタビューの中で彼は、自分と同世代の作家ラシュディをライバルと呼んではばからない。もちろん気負いはあるのだろうが、そのライバル意識がストレートに伝わってくるのである。彼が夏目漱石や太宰治を小大家と呼ぶとき、その見すえている地平が日本のはるか彼方にあることが分るだろう。それは、「インドにも在り、おそらく形を変えてタイ、ビルマ、ベトナム、マレーシアにも在る『ラーマヤーナ』の祖型を、日本の熊野で私が書きついでいるのではないか」(『時代が終り、時代が始まる』)という彼の「反問」の越境性とも結びつく。

時代が終り、時代が始まる / 中上 健次
時代が終り、時代が始まる
  • 著者:中上 健次
  • 出版社:福武書店
  • 装丁:ハードカバー(473ページ)
  • 発売日:1988-09-01
  • ISBN-10:482882278X
  • ISBN-13:978-4828822785
内容紹介:
'80年代とはどんな時代か?!吉本隆明論、フォークナー、坂口安吾についての文学論に加えて、状況論、マスコミ論、芸術論、熊野案内等、'80年代の最前線に常に位置し過激な発言を続けてきた著者の、多岐にわたるエッセイの集大成!

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「ラテンアメリカと小説の普遍性」というエッセーの中で、カルロス・フエンテスは、彼が執筆活動を開始した一九五〇年代に、周囲からは「小説は死んだ」という不吉な言葉ばかりが聞こえてくるのでひどくがっかりしたものだと述べている。実際、即座に情報を提供するという点でラジオ、映画、ジャーナリズムに立ち打ちできない小説は、専門的な情報を与えるという点でも、心理学や経済学、歴史学の書物に対抗できない。だが、ラテンアメリカはもとより全世界の彼の世代の作家は、現代のマスメディアの挑戦に対し、小説とは情報を与えるものではなく、想像するものであること、そして文学においては知識とは想像力であることを悟ったのだという。また文学は決してエリート的であってはならず、庶民レベルにまで届くべきだとする議論に対しては、文学を「民主的」大衆性に同一化させるなら、それは文学も民主主義も損なうことを指摘する。民主主義イコール凡庸や無知ではないのだ。

ラテンアメリカではときに、ホセ・レサマ=リマの難解な小説『パラディソ』やコルタサルの『石蹴り遊び』のような小説は教養のない読者には受容不可能であると言われてきた。それに対しフエンテスは、ラテンアメリカの無教養な人間が無教養でなくなったとき一体何を読むだろうかという問で反論する。スーパーマンかドン・キホーテか、シェイクスピアか大衆誌の「オラ!」かというわけである。そしてフエンテスはスターンの『トリストラム・シャンディ』の例を引き合に出しながら、その時代には大いにののしられたり難解とみなされた小説の娯楽性の力の方が、シドニー・シェルダンとジャッキー・コリンズを合せた仕事よりも長く生命を保ってきたしこれからも生きながらえるであろうと断言するのだ。

スーザン・ソンタグはブラジルの作家論マシャード・デ・アシースで、ラテンアメリカ文学におけるスターンの影響を指摘しながら、「世界文学という視点から見ると、彼こそは、シェイクスピア、ディケンズについで最大級の影響を与えてきた英語作家と言えるかもしれない」(富山太佳夫訳)と述べている。事実、自分の意識の物語を自分が生まれる前から始めてしまうトリストラム・シャンディはデ・アシースの作品から最近ではフエンテスの実験的長篇『胎児クリストバル』に至るまでその影を落している。

スターンについてソンタグは次のようにいう。

スターンの小説類は、生前から死後まもなくにかけてはとても有名であったが、その後のイングランドでは特異すぎる、野卑に走ることがある、結局つまらないと評価が変わったけれども、ヨーロッパ大陸では大いにもてはやされ続けた。今世紀になると、英語圏でもスターン評価は再び上昇してくるが、それでもやはり別格的にエクセントリックで、周縁に位置する天才(ブレイクと似ている)、無気味なほど早く現われすぎた「モダンな」作家である点がいちばん目につく、というあつかいである。

ここで中上健次におけるスターンの影響について論じようというのではない。そうではなく、中上もまたスターンのように、正典化されにくい、あるいはそれを拒否する作家であることを、「世界文学という視点」で指摘したいのである。もちろんゲーテ以来の「世界文学」という概念そのものが今日問題になっているのであり、その性格についての議論が必要だろう。もっとも、フエンテスはこの点をさして問題にしていないし、筆者もここで展開するつもりはない。

フエンテスはいわゆるベストセラーをファースト・フードに喩え、その読者は楽しみはするだろうが真に読んではいない、それはファースト・フードがたちまち腸を通過して排泄されてしまうのと同じであるという。これに対し、まだ存在しない読者、読むという行為そのものにおいて見出される読者を捜し求めているフィクションがある。フエンテスによれば、そのような作品とそのような読者が出遭ったときにこそ、小説は真の誕生を迎えるのである。

こうして潜在力を秘めた小説と潜在力を秘めた読者が結びついたときに、メディアに支配された世界において突きつけられた、「他の方法では言えない何事を小説は言うことができるのか」というヘルマン・ブロッホの根源的な問に、小説は答えることになる。しかもその問は、世界がこれまでまれにしか知らなかったようなきら星のごとき作家たちによって答えられるのだ。彼らはもはや一国籍、一言語にのみ結びついているのではない、そうした作家の例としてフエンテスは、ギュンター・グラス、ナディン・ゴーディマ、ジョアン・ディディオン、フリアン・リオス、セベロ・サルドゥイ(先頃惜しくも亡くなった)、チニュア・アチュべ、イタロ・カルヴィーノ、フアン・ゴイティソロ、トニ・モリソン、マーガレット・アトウッド、ソナラ・イブラーヒーム、ジョージ・コンラッドを挙げる。彼らはすべて、ナショナリズムの境界を超えた作家たちである。フエンテスは言う。「ミラン・クンデラを彼がチェコ人だからと言って読む者はいないし、ガルシア=マルケスを彼がスペイン語で書くという理由で読む者もいない。彼らはその想像力の質によって読まれるのだ」と。このフエンテスの挙げるリストの中に中上の名を加えることは可能だろう。いくつかの代表作とそこに見られる想像力の質により、彼をそこに入れても不当ではない。

だが、フエンテスの論にもう少し耳を傾けよう。彼はシーモア・メントンの唱える、近年のラテンアメリカ小説に見られる歴史へのこだわりという傾向に注目する。それは過去がまだ過ぎ去ってはいないこと、現在が我々の手中で息絶えないように過去を常に再創造しなければならないことを主張する。 さらに彼は、こうした傾向はモダンあるいはポストモダンの世界に不可欠だという。なぜなら、結局のところ、モダニティというのは終りのない企てであり、永遠に未完のままだからだ。変化したのはおそらく、ボードリヤールの言う「未来は到着した、すべてが到着した、何もかもここにある」という認識だろう。だがリオタールによれば、それは単に西欧の伝統が、彼が「解放のメタ・ナラティヴ」と呼ぶものを枯渇させてしまったことを意味するに過ぎない。しかし、ここでフエンテスは新たな問を投げかける。すなわち、モダニティの「メタ・ナラティヴ」の終焉は、西欧のモダニティによる独占的支配を越えて、多人種、多文化世界からやってくる「マルチ・ナラティヴ」が増加することを告げるのではないか。西欧のモダニティのメタ・ナラティブへの不信は、西欧ばかりでなく、アジア・アフリカそして結局は「極西」であるラテンアメリカにおける、多種多様な解釈の企てのために語るポリ・ナラティヴに対する軽信に取って換わられる。その例として彼は、グラス、ゴイティソロ、ラシュディ、デサイ、バオ・ダイらを挙げる。

このような文脈に中上を当てはめてみるとどうなるだろうか。韓国の作家、尹興吉との対談で中上は、在日朝鮮人作家への期待としてドゥルーズ=ガタリのマイナー文学論をパラフレイズしたような論を展開している。少数民族が支配言語で書くことの意味を彼は他の機会にも語っているが、その根底にあるのはことによるとフエンテスの言うポリ・ナラティヴに対する軽信かもしれない。だがそれはおそらく軽信ではないだろう。なぜなら、西欧というレベルの前に、彼には路地と差別というレベルの根拠があるからだ。だからフエンテスがラテンアメリカを極西とみなすことに彼は反対したかもしれない。アメリカでインディアンやチカーノに共感を示す彼にとり、ラテンアメリカは極東かもしれないからだ。『異族』や『熱風』といった未完の作品にそうしたメッセージを読みとることができないだろうか。

東洋に位置する―対談 / 中上 健次
東洋に位置する―対談
  • 著者:中上 健次
  • 出版社:作品社
  • 装丁:単行本(190ページ)
  • 発売日:1981-01-01
  • ISBN-10:4878930527
  • ISBN-13:978-4878930522

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国文学 解釈と鑑賞

国文学 解釈と鑑賞 別冊 1993年9月号

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