書評

『冷めない紅茶』(福武書店)

  • 2020/08/03
冷めない紅茶 / 小川 洋子
冷めない紅茶
  • 著者:小川 洋子
  • 出版社:福武書店
  • 装丁:文庫(205ページ)
  • 発売日:1993-06-01
  • ISBN-10:4828832718
  • ISBN-13:978-4828832715
内容紹介:
中学の同級生の葬式で再会したK君。彼と一緒に過ごした不思議な空間。K君のいれてくれた紅茶は永遠に冷めない―。猥雑な生から透明な死へと傾斜していく現代の危うい感性を捉えた表題作に、「ダイヴィング・プール」を併録した傑作小説集。
『冷めない紅茶』は、小川洋子作品のなかでも、特に好きな一編だ。友人の死というショッキングな事件から話は始まっているけれど、それはほんの入口であって、あとは淡々とした物語が続いている。

友人のお葬式で再会した同級生のK君。主人公の「わたし」は、以後、たびたび彼の家を訪れることになる。出迎えてくれるのは、K君と彼の美しい妻。穏やかであたたかで懐かしいような時間が、いつも「わたし」を包んでくれる。

「わたし」にはサトウという同居人がいて、彼との生活とK君宅での時間は、まるで異質なものだ。サトウとのあいだには、典型的な日常が流れている。大口を開けて虫歯を見せたり、ささいなことでケンカをしたり、というような。

こっちが日常なら、あっちは非日常なんだ――と気づくまで、私にはずいぶん時間がかかった。読むたびに不思議な気分を味わってはいたけれど。そして不審に思う点もないではなかったけれど。K君と妻の住んでいるところは死者の世界なのだ、と明確に教えられたのは、文庫本に寄せられた加藤典洋氏の解説によってだった。

そういう目で読みかえすと、なにもかもつじつまが合ってしまう。そういうつもりで書かれたものなのだろうから、あたりまえと言えばあたりまえのことなのだろうけれど、なんだか少し残念な気もした。

「これは現実のできごとではなく、死者との交歓なのだ」というのは、一般的に考えればまことに不思議な設定だ。が、その不思議な設定を認めたとたん、作品の不思議さが消えてしまう。

一生懸命、ありのままのこととして読もうとしていた自分が感じていた、妙な味わい。

それは、やはり大切にしたい。この作品のなかでの「ありえないこと」は、みな愛すべき、ありえなさだから。

たとえば、K君が中学生のときに図書館の司書をしていたという妻は、実年齢には不似合いの若さだ。K君がいれてくれた紅茶は、時間がたっても、とびきり熱い。

そんな女性がいてもいい、と思う。そんな紅茶を飲んでみたい、と思う。「死者だから」

で簡単に納得してしまうのではなく、最終的にそこへいくにしても、思いっきり回り道をして、この温もりのある不思議さを感じたい。

だから私のように、「死者」というキーワードをなかなか見つけられない鈍感な読者は、ある意味では幸せだ。気持ちのいいわけのわからなさに惹かれて、何度でも読んでしまう。

たぶん作者は、そういう読まれかたもよし、としているのだろう。それほど巧みにこのキーワードは隠されているし、作者はちっとも気づいてほしそうではない。それは不親切、というのとはちょっと違う。「死者の世界」という設定は、作品を書くための補助線のようなもので、できあがった世界の手ざわりそのものに比べれば、もう消してしまってもいい線なのではないかと思う。

「丁寧さと静けさ」「理科の実験のように慎重」「はかない色合いの水彩画のようなもの」

――K君たちとの場面から、こんな言葉を拾うことができる。この感じというのは、小川洋子の小説を読んでいるときに、自分の心の底を流れる感覚と共通する。「わたし」がK君の家に出かけてゆくように、私は小川洋子の小説を読んでいるのかもしれない。

もちろん、彼女の小説では、K君とその妻とは対照的な、残酷な感情や悪意を持った人物が描かれたりもする。けれど、その残酷さも、どろどろしたものではなく、やはりどこか静かではかない感じのものだ。

小川洋子の世界というのは、波瀾万丈の物語というのではない。ドラマチックな恋愛ものでもない。ちりばめられた小道具たちは、きわめて日常的なものばかりだ。なのに描かれる世界は、どこか非日常の匂いが漂う。そして手ざわりが、ものすごく確か。

その秘密のひとつは、詩の言葉のような的確で美しい表現にあるのだろう。なんてことない情景を描くのにも、ぐっとくるような言い回しや比喩が、惜しみなく使われる。

『冷めない紅茶』でいえば、薬屋の脳の立体模型や、K君の喪服をめぐる会話、サトウの書く文字、動物にたとえられる電話……と、思い出していけばきりがない。

こんなにも言葉がすうっと沁みてくるのは、同世代だからだろうか。それだけではないだろうけど、それもあるだろう。理屈ぬきに「いいッ」と思ってしまう部分が、たくさんある。

作者の略歴を見れば、同じ年に生まれ、同じ大学を卒業している。私が短歌を作りはじめたころ、この人は小説を書いていた。キャンパスのどこかで、すれ違っていたかもしれないんだなあ、と思う。

【再録】
はじめての文学 小川洋子 / 小川 洋子
はじめての文学 小川洋子
  • 著者:小川 洋子
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(252ページ)
  • 発売日:2007-06-15
  • ISBN-10:4163598804
  • ISBN-13:978-4163598802
内容紹介:
夢か現実か、静かに透き通った迷宮にも似た世界で繰り広げられる不思議な出来事。小川洋子の世界のエッセンスを味わう短篇5作収録

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冷めない紅茶 / 小川 洋子
冷めない紅茶
  • 著者:小川 洋子
  • 出版社:福武書店
  • 装丁:文庫(205ページ)
  • 発売日:1993-06-01
  • ISBN-10:4828832718
  • ISBN-13:978-4828832715
内容紹介:
中学の同級生の葬式で再会したK君。彼と一緒に過ごした不思議な空間。K君のいれてくれた紅茶は永遠に冷めない―。猥雑な生から透明な死へと傾斜していく現代の危うい感性を捉えた表題作に、「ダイヴィング・プール」を併録した傑作小説集。

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海燕(終刊)

海燕(終刊) 1993年11月号

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