書評
『冷めない紅茶』(福武書店)
『冷めない紅茶』は、小川洋子作品のなかでも、特に好きな一編だ。友人の死というショッキングな事件から話は始まっているけれど、それはほんの入口であって、あとは淡々とした物語が続いている。
友人のお葬式で再会した同級生のK君。主人公の「わたし」は、以後、たびたび彼の家を訪れることになる。出迎えてくれるのは、K君と彼の美しい妻。穏やかであたたかで懐かしいような時間が、いつも「わたし」を包んでくれる。
「わたし」にはサトウという同居人がいて、彼との生活とK君宅での時間は、まるで異質なものだ。サトウとのあいだには、典型的な日常が流れている。大口を開けて虫歯を見せたり、ささいなことでケンカをしたり、というような。
こっちが日常なら、あっちは非日常なんだ――と気づくまで、私にはずいぶん時間がかかった。読むたびに不思議な気分を味わってはいたけれど。そして不審に思う点もないではなかったけれど。K君と妻の住んでいるところは死者の世界なのだ、と明確に教えられたのは、文庫本に寄せられた加藤典洋氏の解説によってだった。
そういう目で読みかえすと、なにもかもつじつまが合ってしまう。そういうつもりで書かれたものなのだろうから、あたりまえと言えばあたりまえのことなのだろうけれど、なんだか少し残念な気もした。
「これは現実のできごとではなく、死者との交歓なのだ」というのは、一般的に考えればまことに不思議な設定だ。が、その不思議な設定を認めたとたん、作品の不思議さが消えてしまう。
一生懸命、ありのままのこととして読もうとしていた自分が感じていた、妙な味わい。
それは、やはり大切にしたい。この作品のなかでの「ありえないこと」は、みな愛すべき、ありえなさだから。
たとえば、K君が中学生のときに図書館の司書をしていたという妻は、実年齢には不似合いの若さだ。K君がいれてくれた紅茶は、時間がたっても、とびきり熱い。
そんな女性がいてもいい、と思う。そんな紅茶を飲んでみたい、と思う。「死者だから」
で簡単に納得してしまうのではなく、最終的にそこへいくにしても、思いっきり回り道をして、この温もりのある不思議さを感じたい。
だから私のように、「死者」というキーワードをなかなか見つけられない鈍感な読者は、ある意味では幸せだ。気持ちのいいわけのわからなさに惹かれて、何度でも読んでしまう。
たぶん作者は、そういう読まれかたもよし、としているのだろう。それほど巧みにこのキーワードは隠されているし、作者はちっとも気づいてほしそうではない。それは不親切、というのとはちょっと違う。「死者の世界」という設定は、作品を書くための補助線のようなもので、できあがった世界の手ざわりそのものに比べれば、もう消してしまってもいい線なのではないかと思う。
「丁寧さと静けさ」「理科の実験のように慎重」「はかない色合いの水彩画のようなもの」
――K君たちとの場面から、こんな言葉を拾うことができる。この感じというのは、小川洋子の小説を読んでいるときに、自分の心の底を流れる感覚と共通する。「わたし」がK君の家に出かけてゆくように、私は小川洋子の小説を読んでいるのかもしれない。
もちろん、彼女の小説では、K君とその妻とは対照的な、残酷な感情や悪意を持った人物が描かれたりもする。けれど、その残酷さも、どろどろしたものではなく、やはりどこか静かではかない感じのものだ。
小川洋子の世界というのは、波瀾万丈の物語というのではない。ドラマチックな恋愛ものでもない。ちりばめられた小道具たちは、きわめて日常的なものばかりだ。なのに描かれる世界は、どこか非日常の匂いが漂う。そして手ざわりが、ものすごく確か。
その秘密のひとつは、詩の言葉のような的確で美しい表現にあるのだろう。なんてことない情景を描くのにも、ぐっとくるような言い回しや比喩が、惜しみなく使われる。
『冷めない紅茶』でいえば、薬屋の脳の立体模型や、K君の喪服をめぐる会話、サトウの書く文字、動物にたとえられる電話……と、思い出していけばきりがない。
こんなにも言葉がすうっと沁みてくるのは、同世代だからだろうか。それだけではないだろうけど、それもあるだろう。理屈ぬきに「いいッ」と思ってしまう部分が、たくさんある。
作者の略歴を見れば、同じ年に生まれ、同じ大学を卒業している。私が短歌を作りはじめたころ、この人は小説を書いていた。キャンパスのどこかで、すれ違っていたかもしれないんだなあ、と思う。
【再録】
友人のお葬式で再会した同級生のK君。主人公の「わたし」は、以後、たびたび彼の家を訪れることになる。出迎えてくれるのは、K君と彼の美しい妻。穏やかであたたかで懐かしいような時間が、いつも「わたし」を包んでくれる。
「わたし」にはサトウという同居人がいて、彼との生活とK君宅での時間は、まるで異質なものだ。サトウとのあいだには、典型的な日常が流れている。大口を開けて虫歯を見せたり、ささいなことでケンカをしたり、というような。
こっちが日常なら、あっちは非日常なんだ――と気づくまで、私にはずいぶん時間がかかった。読むたびに不思議な気分を味わってはいたけれど。そして不審に思う点もないではなかったけれど。K君と妻の住んでいるところは死者の世界なのだ、と明確に教えられたのは、文庫本に寄せられた加藤典洋氏の解説によってだった。
そういう目で読みかえすと、なにもかもつじつまが合ってしまう。そういうつもりで書かれたものなのだろうから、あたりまえと言えばあたりまえのことなのだろうけれど、なんだか少し残念な気もした。
「これは現実のできごとではなく、死者との交歓なのだ」というのは、一般的に考えればまことに不思議な設定だ。が、その不思議な設定を認めたとたん、作品の不思議さが消えてしまう。
一生懸命、ありのままのこととして読もうとしていた自分が感じていた、妙な味わい。
それは、やはり大切にしたい。この作品のなかでの「ありえないこと」は、みな愛すべき、ありえなさだから。
たとえば、K君が中学生のときに図書館の司書をしていたという妻は、実年齢には不似合いの若さだ。K君がいれてくれた紅茶は、時間がたっても、とびきり熱い。
そんな女性がいてもいい、と思う。そんな紅茶を飲んでみたい、と思う。「死者だから」
で簡単に納得してしまうのではなく、最終的にそこへいくにしても、思いっきり回り道をして、この温もりのある不思議さを感じたい。
だから私のように、「死者」というキーワードをなかなか見つけられない鈍感な読者は、ある意味では幸せだ。気持ちのいいわけのわからなさに惹かれて、何度でも読んでしまう。
たぶん作者は、そういう読まれかたもよし、としているのだろう。それほど巧みにこのキーワードは隠されているし、作者はちっとも気づいてほしそうではない。それは不親切、というのとはちょっと違う。「死者の世界」という設定は、作品を書くための補助線のようなもので、できあがった世界の手ざわりそのものに比べれば、もう消してしまってもいい線なのではないかと思う。
「丁寧さと静けさ」「理科の実験のように慎重」「はかない色合いの水彩画のようなもの」
――K君たちとの場面から、こんな言葉を拾うことができる。この感じというのは、小川洋子の小説を読んでいるときに、自分の心の底を流れる感覚と共通する。「わたし」がK君の家に出かけてゆくように、私は小川洋子の小説を読んでいるのかもしれない。
もちろん、彼女の小説では、K君とその妻とは対照的な、残酷な感情や悪意を持った人物が描かれたりもする。けれど、その残酷さも、どろどろしたものではなく、やはりどこか静かではかない感じのものだ。
小川洋子の世界というのは、波瀾万丈の物語というのではない。ドラマチックな恋愛ものでもない。ちりばめられた小道具たちは、きわめて日常的なものばかりだ。なのに描かれる世界は、どこか非日常の匂いが漂う。そして手ざわりが、ものすごく確か。
その秘密のひとつは、詩の言葉のような的確で美しい表現にあるのだろう。なんてことない情景を描くのにも、ぐっとくるような言い回しや比喩が、惜しみなく使われる。
『冷めない紅茶』でいえば、薬屋の脳の立体模型や、K君の喪服をめぐる会話、サトウの書く文字、動物にたとえられる電話……と、思い出していけばきりがない。
こんなにも言葉がすうっと沁みてくるのは、同世代だからだろうか。それだけではないだろうけど、それもあるだろう。理屈ぬきに「いいッ」と思ってしまう部分が、たくさんある。
作者の略歴を見れば、同じ年に生まれ、同じ大学を卒業している。私が短歌を作りはじめたころ、この人は小説を書いていた。キャンパスのどこかで、すれ違っていたかもしれないんだなあ、と思う。
【再録】
初出メディア

海燕(終刊) 1993年11月号
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