本文抜粋

『NO NUKES―〈ポスト3・11〉映画の力・アートの力―』(名古屋大学出版会)

  • 2021/02/04
NO NUKES―〈ポスト3・11〉映画の力・アートの力― / ミツヨ・ワダ・マルシアーノ
NO NUKES―〈ポスト3・11〉映画の力・アートの力―
  • 著者:ミツヨ・ワダ・マルシアーノ
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(244ページ)
  • 発売日:2021-02-04
  • ISBN-10:4815810141
  • ISBN-13:978-4815810146
内容紹介:
〈見えないもの〉とたたかう――。大震災/原発事故後、なすべきことを問いかけ、時代のメディア環境の中で自生した、追従せざる映画やアート。「小さき声」の響く作品と向き合い、作家たちの揺れ動く言葉を聴く。新たな困難によっても上書きされない、明日への記憶のために。
外国人研究者として滞在中に東日本大震災を経験した、映像・メディア学研究者のミツヨ・ワダ・マルシアーノ氏。以後約十年間、さまざまな映像作品――福島第一原発事故以前の「原子力映画」、反原発運動の旗手と謳われる映像作家・鎌仲ひとみの作品、弁護士でありながら制作を続ける監督・河合弘之の映画、酒井耕・濱口竜介監督作品「東北記録映画三部作」『なみのおと』『なみのこえ』『うたうひと』など――との対話を通じて彼女が見出した、一つの希望の声とは。このたび刊行された著作『NO NUKES』の内容を、冒頭から一部抜粋してご紹介します。

大震災/原発事故後の映像作品は、私たちに何を問いかけるのか?

本書に向けたプロジェクトは、私が京都にある国際日本文化研究センターに、外国人研究者として滞在していた2011年から始まった。当時、日本の「ねじれた」戦後のあり方を、映画を通して読み取るリサーチをするため、前年より一年間の予定でセンターに滞在していたのだが、その時、東日本大震災が起こった。カナダへの帰国は同年夏に予定されていたが、それを繰り上げるかたちでカナダの家族の元へ戻るかどうか迷った。しかし、私は残された半年間、マスメディアやネットを通して流される情報やイメージを、ここ/日本で体験すると決めた。同年8月、予定通りにカナダへ帰国して以来、このプロジェクトのために新たな研究費を申請したり、煩雑な数々の手段を踏み直しながら研究テーマのシフトを図った。2016~17年、同センターに再び一年間、今度は東日本大震災後の映像文化に関するリサーチをするための滞在がかなった。本書は、異なるレベルで、国際日本文化研究センターでのこれら二年間に負うものが大きい。

後者の一年間に定期的に主催した研究会での発表の数々を礎にしながら、2019年、法政大学出版局から『〈ポスト3・11〉メディア言説再考』という論集を出版することができた。本書の終章はこの論集に収録した論考を元にしている。このように、『NO NUKES――〈ポスト3・11〉映画の力・アートの力』は、十年近い歳月の中で書かれている。その間私は、本書で扱われる映画作品のほぼすべての監督に実際に会い、インタビューを重ね、上映会を共に開きながら、作品についての対話を続けた。映像作家たちだけでなく、上映会を観に来てくれた観客たちとの対話からも、多くの知識やアイデアを授かった。しかしなによりも、これら作品の数々を何度も繰り返し見るうちに、ドキュメンタリー映画そのものの内側から、多くの異なる「声」を聴く思いがした。

この十年のあいだに、私は幾つもの「痕跡」に遭遇することになった。例えば、元・京都大学原子炉実験所助教であった小出裕章の存在は、本書の執筆を進めるにあたり、私を何度も鼓舞してくれた。研究者としての専門性と人間としての良心を兼ね備えた彼の言葉の数々が、消えることのない「痕跡」として私の心に刻みつけられた。「騙されたあなたにも責任がある」と述べる小出の言葉は、敗戦後の日本の「ねじれ」を彷彿とさせる(小出裕章『騙されたあなたにも責任がある――脱原発の真実』(幻冬舎、2012年))。同様に、高橋哲哉の「犠牲システム」論にも、大きく背中を押された。

いかなる犠牲もない国家社会が成り立つかどうか、これはここでは答えることができない問題である。しかし、それでも、軍事基地や原発のリスクを限りなくゼロに近づけていく、そういう政治的な選択は十分可能だし、それをめざしていく必要があると私は思う。
(高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社、2012年)216頁)

という文章で、高橋は彼の刺激的な一篇を終わらせている。このような理想的な国家社会を成立させるための方法は何なのか、また、これからの歴史の中にわれわれはそういった方法論を見つけることができるのだろうか。

本書は、過去の学術的な伝統や議論にも大きな影響を受けた。カール・ヤスパースは、ドイツにおける敗戦の起点において、国家レベルにおける拭えない「汚れ」から、どのように「普遍」へと向かうべきかという思想の道筋をわれわれに残した。彼が提唱する「罪の清め(ライニグング)」という考え方は、人々が「世界市民」であると同時に、「敗戦国民」であるという自覚に目覚めるよう注意を喚起している。ポール・リクールの歴史修正主義を論じた大著『記憶・歴史・忘却』からは、「忘却」や「痕跡」といった概念を学んだだけでなく、「赦し」という決定的に難しい行為のあり方を知らせれた。ヨーロッパにおける宗教的な伝統に裏打ちされた彼の考え方を、ネオリベラリズムへと邁進する現在の日本に重ね合わせることができるのだろうかと考えるとき、呆然としてしまうものの、それでも何らかの道筋を見出さないわけにはいかない。

本書を書くにあたり、私はこういった多くの先達たちの声を、映像作家たちの作品と重ね合わせながら、その方法論を模索した。そうすることで、彼ら映像作家たちが丹精込めて作り上げた作品と対話をしながら、映像から聴くことのできる声を、自分ができるだけの想像力を働かせながら「翻訳」させてもらった。この長い過程の中で、私が見つけた一つの希望の声は、「no nukes」である。明日がある国家社会を目指すために、われわれはフクシマという記憶の「痕跡」を抱え続けなくてはならないだけでなく、「赦し」についても継続的に考え続けなくてはならないだろう。それは、東京電力を、あるいは震災以来の日本政府の誤った判断の数々を、あるいは原子力ムラを存続させている産・官・学の構造といったものを単に赦すわけではもちろんない。むしろ、責任の根源をまず自己に求め、個々の責任を果たすこと、そして社会を変えようとする意志を持つことに重きが置かれるべきだと言いたい。多くの人々が各自の責任を果たすことによって、現在の日本社会から「犠牲のシステム」が拭い落とされるとき、新たな「赦し」が生まれることだろう。本書がそのための一歩になることを、私は心より希望する。

[書き手]ミツヨ・ワダ・マルシアーノ(徳島市生まれ。京都大学大学院文学研究科教授)
NO NUKES―〈ポスト3・11〉映画の力・アートの力― / ミツヨ・ワダ・マルシアーノ
NO NUKES―〈ポスト3・11〉映画の力・アートの力―
  • 著者:ミツヨ・ワダ・マルシアーノ
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(244ページ)
  • 発売日:2021-02-04
  • ISBN-10:4815810141
  • ISBN-13:978-4815810146
内容紹介:
〈見えないもの〉とたたかう――。大震災/原発事故後、なすべきことを問いかけ、時代のメディア環境の中で自生した、追従せざる映画やアート。「小さき声」の響く作品と向き合い、作家たちの揺れ動く言葉を聴く。新たな困難によっても上書きされない、明日への記憶のために。

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