書評
『彼女は何を視ているのか――映像表象と欲望の深層』(作品社)
映画の核心に迫る分析の冴え
旺盛な研究・批評活動を続けながら若くして逝った著者の、映画をめぐる遺稿をまとめた論集である。ジェンダー論、精神分析、そしてポスト・コロニアリズム。最先端の言説を軽々と操って、刺激的な議論が展開されていく。専門用語に満ちた文章は、ハードな迫力に満ちている。しろうとにはちょっと手が出せないと敬遠されかねない学術度の高さだ。
だが臆することなくぶつかって行くなら、得るところがあるだろう。著者の問題意識は一貫して、現代社会の根幹に向かっている。我々の欲望は映像によって、どのように作られ、枠をはめられているのか。男女はいかに画一的な規範の中に押し込められ、自己を奪われているのか。その現状を鋭敏に抉(えぐ)り出しつつ、閉塞を突破する可能性が探られる。
「男女の固定的な性位置を認識の基盤的形式としては捉えない」というのが著者の信条である。“通常”の男女関係は「強制的異性愛」と言い換えられ、そのイデオロギーが女性を抑圧し、性的少数者を排除してきた有り様が糾弾される。ハリウッド娯楽作品に代表される映画こそは、文化的産物としての異性愛の「物語」を行き渡らせる装置だった。
だが、同時に映画には、そうした物語に収まりきらない、その枠を打ち破るかのような「瞬間」が不意に訪れることがある。例えば、往年の美人女優グレタ・ガルボが「クリスチナ女王」で、女官とキスする場面。あるいはハリウッド版「悪魔のような女」で、女同士が視線をかわすシーン。その一瞬、「ドメスティック・イデオロギー」から自由になった女の姿が幻のように輝き出る。
謎に満ちた傑作「マルホランド・ドライブ」の核心に迫る一章が示すとおり、著者の作品論は男性的視点に囚(とら)われた精神分析の限界を超える冴(さ)えを示す。そしてドヌーヴをめぐる短いエッセーに表れている、女優への共感に満ちた注視の内に、さらなる展開を期待させるものが感じられる。女優こそ、大衆的欲望の彼方(かなた)を指し示しうる存在だからだ。
ジョディ・フォスター論の書き下ろしを企図していたという著者の死を悼みつつ、この挑戦的著作のインパクトを受けとめたい。
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