さまよえる魂
ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』といえば、モダンな怪談として屈指の傑作に違いない。『抱擁』を開く前に久方ぶりに再読し、間然とするところのないストーリーテリングにいまさらながら舌を巻いた。寂しい田舎のお屋敷で、幼い兄妹の家庭教師を務める女性の経験した不可思議な出来事。それを家庭教師自らが語るというスタイルが、すべての鍵を握っている。一人称の語りがはらむ主観的なあいまいさ、決定不能性が、そのまま汲めども尽きせぬサスペンスの源となるのだ。かつて屋敷にいた召使と家庭教師が、変死したのち兄妹に取り憑く。生前から二人は、いたいけな兄妹に手をのばして悪の道に引き込んでいたのであり、死後もなお「悪魔の所業(しわざ)を続けるために」(南條竹則・坂本あおい訳)舞い戻ってくる。厄介なのは、幼い兄妹が実はひそかに悪魔のカップルと通じ合い、示し合わせているらしいことだ。家庭教師がその事実に感づいていることを知りながら、子どもたちは愛らしい微笑を浮かべているのである。
ところが、そんな極度に緊迫した水面下の葛藤は、すべて女家庭教師の妄想であるのかもしれない。「わたしに取り憑いた考えの奇妙な歩み」という表現のうちに、読者を深く困惑させつつ物語の魔力で搦めとる、この作品のスリリングな両義性がある。悪魔は兄妹に取り憑いているのか、それとも家庭教師一人が、そんな考えに取り憑かれているのか?
『抱擁』において辻原登が挑んだのは、『ねじの回転』を日本に移植し、負けないほど面白い小説を生み出すという試みだ。しかもその大胆きわまる試みが、まんまと成功しているのだから驚きである。辻原氏が、ヘンリー・ジェイムズの語り口を支える巧緻を明晰に意識しつつ、それを乗り越えるための手立てを尽くしていることにぼくは感服させられた。それは、憑依しているのはいったい何者かという重大問題にかかわる事柄だ。
『ねじの回転』において、子どもたちに取り憑いた悪魔の姿は、女家庭教師の目ではっきりと捉えられている。彼女は最初、相手が死者だとは知らずに召使の姿を目撃したのだ。その点が『抱擁』ではまったく異なる。五歳の娘の小間使として前田侯爵家に雇われた「わたし」は、やがて自分が世話をする「緑子」の言動に不審なところがあるのに気づく。真夜中にベッドを抜け出していなくなったり、ふと視線をさまよわせて、何者かのあとを追うような表情を見せたり。以前小間使いを務めていたが、夫のあとを追って自殺した「ゆきの」が緑子に取り憑いているらしい。「わたし」の相談役となるお屋敷の家庭教師ミセス・バーネットの言葉を使うならば、「ポゼスされている」のだ。その確信が深まるほどに、ひょっとしたら「ポゼス」されているのは「わたし」自身なのかもしれないという疑念も生じてくるあたりは、『ねじの回転』がみごとに換骨奪胎されている。
だが『抱擁』においては、少女を「ポゼス」している者の姿は小間使によって目撃されることはなく、描写の対象とならない。「何かがいるのです。」しかしその何かは可視化される機会をもたないまま、ひたすら純粋な気配としてまとわりつく。それゆえに『ねじの回転』と比べて、物語のサスペンスが弱まるかといえば、まったくそんなことはない。決して目に見えない「何か」を核心にもつことで、いわばポゼスされたテクストとしての『抱擁』の緊張感は、いやがうえにも高まるのだ。
「ポゼス」している者は少女に害をなそうとしているのか、それとも善をなすのかという問いが立てられる時点で、『抱擁』は『ねじの回転』にはなかった、まったく新たな次元の興味を加えていく。読者のお楽しみを奪いかねないので、その点には触れずにおこう。感想として書きつけておきたいのは、『ねじの回転』をひとつの発想源としながら、作者が目論んでいたのは、「何か」に憑かれる体験としての物語それ自体をめぐる、実践的な思考だったのではないかということだ。かつて辻原氏はある鼎談の席で、「物語」とは意外にも、中国伝来の語でも西洋語の翻訳でもなく、日本独自の言葉なのだと指摘しつつ述べていた。「日本語の大和言葉における「もの」というのは目に見えないもの」であり、「大和の人たちが「もの」と呼んだ時は、本来は身体の中にいるべき何かが、なんらかの事情で身体の外に出たもの、それをどうやら「もの」と呼んでいるみたいなんです」(「表現者」二〇〇八年五月号)と。
まさに、「本来は身体の中にいるべき何か」が「身体の外に出」るという事態。それがたとえば、二・二六事件直後の東京では、こんな風に起こり得たのではないかという実験を、辻原氏は『抱擁』でやってみせてくれたのだ。その際、「悪魔の所業」をめぐるおどろおどろしい材料は、いっさい必要がなくなる。死んだ「ゆきのさん」が、「わたし」と緑子のあいだを漂っている。そんな静かな実感だけで、物語は見事に成立する。それはさまよえる魂をめぐる、哀しくも美しいストーリーとして結晶するのだ。
それにしても、この決して長くない一編には、「ゆきの」の話のかたわらに、どれほど多様な物語が配されていることか。キプリングにアエネアス、Gone with the Windに「ポルターガイスト」の事件。物語の魂は決して一巻の書物に閉じ込められるものではなく、いつでも「身体の外に」さまよい出すのである。さまよい出した物語を網にかけ、捕獲する専門家として、「速記の方」の存在が冒頭に描き込まれているのは興味深い。『抱擁』の全編は、「わたし」が検事の前で、自らの引き起こした事件について証言した記録からなる。しかし彼女と検事のあいだに、証言を記録する第三者が存在しないことには、物語は決してわれわれのもとに届けられはしないだろう。
だが、そこには奇妙なパラドクスも生じている。事件が一段落したのち、全編をエピローグがしめくくる。その内容はもはや「証言」には含まれず、「検事」の関知するところではない。ではそこで「わたし」は、だれに向かって語っているのか。その言葉を「速記」してくれたのは、いったい何者なのか。どうやら物語には、どうしたって「物の怪」的なあやしさ、物狂おしさがつきまとうらしい。あまりにも鮮やかな幕切れは、そんな感慨も呼び起こすのである。
【単行本】