書評

『伯爵夫人』(新潮社)

  • 2021/08/18
伯爵夫人 / 蓮實 重彦
伯爵夫人
  • 著者:蓮實 重彦
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(222ページ)
  • 発売日:2018-12-22
  • ISBN-10:4101003912
  • ISBN-13:978-4101003917
内容紹介:
ばふりばふりとまわる回転扉の向こう、帝大受験を控えた二朗の前に現れた和装の女。「金玉潰し」の凄技で男を懲らしめるという妖艶な〈伯爵夫人〉が、二朗に授けた性と闘争の手ほどきとは。ボ… もっと読む
ばふりばふりとまわる回転扉の向こう、帝大受験を控えた二朗の前に現れた和装の女。「金玉潰し」の凄技で男を懲らしめるという妖艶な〈伯爵夫人〉が、二朗に授けた性と闘争の手ほどきとは。ボブヘアーの従妹・蓬子や魅惑的な女たちも従え、戦時下の帝都に虚実周到に張り巡らされた物語が蠢く。東大総長も務めた文芸批評の大家が80歳で突如発表し、読書界を騒然とさせた三島由紀夫賞受賞作。

エクリチュールの白魔術

記者会見での著者の不機嫌が話題を呼んだが、作品自体はじつに人を食った面白さが横溢している。優雅かつ周到にして不謹慎きわまる痛快作というほかない。吉田健一がヴァレリー『ドガに就て』の翻訳を出したばかりというディテールがあるから、一九四〇年冬の物語ということになる。昭和の世が真に危機的瞬間を迎えた大変な時期である。それなのに全編ひたすら「男女の急所」をめぐる情景ばかりが余裕綽々と繰り広げられていく。終盤にさしかかるや「戦車」らしきもののたてる鈍い音が響き、最後には新聞で米英宣戦が報じられるのだから事態はまさに深刻そのものである。しかし、帝大受験を控えながら活動写真狂いがとまらない大柄、長身のお坊ちゃま二朗、および彼をとりまく人びとの姿には、明治から大正にかけて、西洋の文物を旺盛に取り入れてわが物とした教養層の豊かな蓄積が、ゆるぎなく備わっていると感じられる。

同時にこちらはもう純日本語的というほかないだろう擬態語、擬音語の数々にも目を見はらされる。「ばふりばふり」を始めとして「すぽりと」「ぬるぬる」「もにょりもにょり」そして「ぷへー」等々が見事な大胆さで繁茂するさまは、谷崎潤一郎が日露戦争直後の東京を描いた『幇間』の「のたりのたり」や「ぐにやりぐにやり」にも劣らずしどけない。しかし、「晩熟」であると幾度も強調されている二朗は、潤一郎的というよりもはるかに鷗外的な純潔を示している。一方では熟れ切った女の魔力をふるう伯爵夫人、他方では未熟な娘なりの大胆さを発揮する蓬子を相手とする二朗の姿は、鷗外がいわゆる「秀麿もの」の諸短編、あるいは長編『青年』で描き出した、性的に奥手な若者の清爽な魅力を受けつぐものだ。とはいえそんな無垢な若者が、数時間のあいだに激しく erectio を繰り返しては、そのたびごとに都合三度も精を放ってしまうという異常事態に立ち至るのだから、鷗外的端正さは蹂躙されるといわなければならない。それどころか二朗はいとも簡単に主人公たる役割を放棄して、失神を繰り返しさえするのである。可憐なまでのへなちょこぶりに思わず笑いを誘われる。

そもそも二朗は毎朝、「精をお漏らしになって」ばかりいるという女中の証言もある。しかしそれこそは若さの特権というべきであり、ただ精があふれ出すにまかせる青年は、自慰行為の後ろめたさを完全に免れて、うらやむべき泰然自若ぶりなのだ。真っ正直に「どばどばと」放たれるその精の分量の多さが強調され、讃えられている。つまりこの小説が描き出しているのは、白いものの横溢であり、絶えず反復され回帰しあたり一面を浸しにかかる「白」の力であるのかもしれない。そう思ううち、そこかしこから「白」が押し寄せてくるような気持ちになってくる。いわく「白っぽい下腹」「白くてぽっちゃり」「白目を剝く」「白い液体」「白い錠剤」「白い大柄な女」「真っ白い裸の尻」「白いタイル」「薫りのよい白い花」……。そして主人公をはじめとして選ばれた何人かの人物たちが失神直前に見る「白っぽい空」の広がりが、いわば空無の啓示がもたらされる瞬間のごとく反復される。そんな白の魔術が猛威をふるうなりゆきの中心に君臨する女が「伯」爵夫人であるのも、そこに「白」が宿っているからなのか。

伯爵夫人のアイデンティティを端的に示すのは「金玉潰し」としての凄腕である。逆にいえば彼女は所詮、「金玉」との相関性において自己を主張するにすぎないのだろうか? 実際、玉の増殖もまた驚くべき活況を呈している。「ルー・ゲーリッグのサイン入り硬球」(二ダースも用意されている)が「カルピスのコップを二つ乗せた盆」を介して二朗の股間に(もちろん二つ)ぶらさがる「おみお玉」を直撃し、それが「冷えたメロン」二玉に化けるあたりの流れは抱腹絶倒の面白さだ。とはいえ男性器がどれほど弄ばれ、攻撃にさらされ、あるいは逆に崇められるにせよ、男性器を中心に据えた圏域からははるかに遠い「どこでもない場所」へと誘う伯爵夫人の手管にこそ、決定的な魔力が秘められている。伯爵夫人とは回転扉の「ばふりばふり」やドロステのココア缶の再帰的画像を引き寄せながら、テクストに次々に謎を導き入れ、空虚でありながらも魅惑的な眩暈をかきたててやまない存在なのである。

「白い」コルネット姿の尼僧が延々と反復されるココア缶の図柄の描写(それ自体反復される)を読みながら、かつて学生時代に読んだ蓮實重彥の第一評論集『批評あるいは仮死の祭典』――評者にとってそれが蓮實批評との出会いだった――の一挿話を思い出さずにはいられなかった。若き蓮實は旧知のアラン・ロブ=グリエとパリで再会する際、ボンベイで見つけたインドの土産物を持参した。それは「直径八ミリほどの微細な象牙の象の人形の腹をひらくと、不気味に小さな百尾の象牙の象があふれだしてくる」という代物だった。ロブ=グリエは子どものように熱狂したというが、一読、その百尾の象の腹を開けるとさらに微小な象がぞろぞろ出てくるのではないかという思いに取りつかれたものだった。それからはるかな歳月を閲して、蓮實は入れ子構造、無限反復の戯れにロブ=グリエ以上に精通し、惑溺しつつ完璧な統御を示している。ルイーズ・ブルックス風の女たちの二重化も、皇族=魚屋の分身同士の遭遇も、すべてはこのうえなく滑らかに演じられながら、奇妙でユーモラスな言葉のループのうちに読む者をとらえこむ。意味に収斂することなくあっけらかんと回転し続けるテクストの運動は根本的に不気味ともいえるが、それにも増してまばゆく晴朗な輝きを放っている。蓮實的な反=記号のエクリチュールの理想形がここに示されたのだ。
伯爵夫人 / 蓮實 重彦
伯爵夫人
  • 著者:蓮實 重彦
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(222ページ)
  • 発売日:2018-12-22
  • ISBN-10:4101003912
  • ISBN-13:978-4101003917
内容紹介:
ばふりばふりとまわる回転扉の向こう、帝大受験を控えた二朗の前に現れた和装の女。「金玉潰し」の凄技で男を懲らしめるという妖艶な〈伯爵夫人〉が、二朗に授けた性と闘争の手ほどきとは。ボ… もっと読む
ばふりばふりとまわる回転扉の向こう、帝大受験を控えた二朗の前に現れた和装の女。「金玉潰し」の凄技で男を懲らしめるという妖艶な〈伯爵夫人〉が、二朗に授けた性と闘争の手ほどきとは。ボブヘアーの従妹・蓬子や魅惑的な女たちも従え、戦時下の帝都に虚実周到に張り巡らされた物語が蠢く。東大総長も務めた文芸批評の大家が80歳で突如発表し、読書界を騒然とさせた三島由紀夫賞受賞作。

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文學界 2016年9月1日

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