後書き

『小津映画の日常―戦争をまたぐ歴史のなかで―』(名古屋大学出版会)

  • 2020/10/15
小津映画の日常―戦争をまたぐ歴史のなかで― / 朱 宇正
小津映画の日常―戦争をまたぐ歴史のなかで―
  • 著者:朱 宇正
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(356ページ)
  • 発売日:2020-10-06
  • ISBN-10:4815810028
  • ISBN-13:978-4815810023
内容紹介:
無の美学から日常の政治性へ――。小津は保守的で日本的なのか。だとしても、それはどういう意味でか。映画産業との関係を含め、大不況や戦争、復興など、近代性と葛藤する同時代の日本の歴史的文脈の中、それとせめぎ合う作品を精緻に読み解き、新たな小津像を提示した国際的力作。
黒澤明、溝口健二とともに、日本映画の三大巨匠の一人として数えられる小津安二郎。没後半世紀以上を経た現在でも、伝記や評論など関連書籍が国内外で刊行され続けています。
このたび出版された『小津映画の日常』の著者で、韓国・ソウル生まれの朱宇正氏は、どのようにして小津映画と出会い、どんな視点から作品をとらえ直そうとしているのでしょうか。著者あとがきより抜粋してご紹介します。

「最も日本的な」映画監督なのか? 小津安二郎作品を多面的に研究する

本書は、2017年にエジンバラ大学出版社から刊行した拙著The Cinema of Ozu Yasujiro: Histories of the Everydayの日本語版である。その英語版は、2012年にイギリスのウォーリック大学映画・テレビジョン学科へ博士学位論文として提出した‘The Flavour of Tofu: Ozu, History and the Representation of the Everyday’に加筆・修正をほどこしたものである。しかも、私が最初に小津に興味を持ち、彼の映画について研究しようと考え始めたのは、それよりさらに何年もさかのぼる2000年代の初め頃である。こうした事情を考えると、本書の内容は、ほぼ20年という長い期間にわたる私の知的巡礼の全記録であると言ってよいかもしれない。

小津映画との出会い――「禁止」と「既視感」

ところで、現在刊行されている小津に関する書籍を見ると、映画研究者や評論家が小津映画に出会った瞬間を、各々の人生において忘れられない経験として語っているものが多い。私の場合、小津と出会った最初の経験は、「禁止」という言葉と重なっている。私が初めて小津の名前に接したのは、1990年代に韓国で出版されたいくつかの映画評論の書物においてであった。まだ日本の大衆文化への開放が始まる数年前だった当時、「日本映画を代表する監督」として紹介されていた小津安二郎の名前は、見ようとしても見られない「禁止」された世界へ向かう強烈な好奇心と交じり合って、記憶の中に鮮明に残された。まだ、釜山国際映画祭は言うまでもなく、ろくなアート・シネマさえ探すのが難しかった当時のソウルで、たとえ日本映画が開放されていたとしても、30年も前に死んでしまった遠い昔の監督の映画を、映画館で観ることができる可能性はゼロに近かっただろう。

結局、この知りえない存在に出会うことができたのは、2000年代になって韓国を離れ留学していたアメリカにおいてであった。サンフランシスコ市立図書館のビデオ・セクションの一部を占めていた日本映画コーナーの片隅にあった『晩春』と『東京物語』を発見した時の興奮は、いまだに忘れられない。しかし、その映画を観た私をもっと驚かせたのは、見知らぬ世界への好奇心を打ち消す奇妙な「既視感」であった。その一種の親近感を、「家族愛」とか「虚無」といった人類共通のテーマを示す言葉で説明することもできなくはないが、いま振り返ってみると、実はそれは、(多少の時間差はあったにせよ)日本とよく似た戦後の経済復興期に大都市の郊外という空間で中流家庭に育った私の感覚的な経験の総体が、小津映画の示す戦後の風景にはまってしまったためかもしれない。ノスタルジーとも言える個人的な過去の記憶の切れ端を、私は小津映画というテクストの中でつなぎ合わせていたのである。

「日常」というキーワード

本書のアイディアも、そういう個人的経験と小津映画との接点を「日常」というキーワードを通して解き明かしたいという欲求から出発している。もちろん、その「日常」という概念をどのような観点から見るべきかは学術的な問題であり、本書はその答えを基本的に欧米の文化研究の立場から探索する方法を取っている。そのような探究の方向性が絶対的なものでないことは言うまでもない。むしろそれは、この研究が(必然であれ偶然であれ)イギリスという、日本でも韓国でもない第三の場所で行われたという事情から、正しく理解できるだろう。言い換えれば、本書はもともと欧米の読者向けに、欧米の小津研究の歴史的な流れの中で、書かれたものなのである。欧米における小津研究の系譜は、序章でも言及したように、おおむねドナルド・リチーやポール・シュレイダーの「文化主義」から始まり、デイヴィッド・デッサーやノエル・バーチの「伝統主義」を経て、デイヴィッド・ボードウェルやクリスティン・トンプソンの「新形式主義」に至る経路をたどってきた。ところが、それは結局のところ、西洋の観点から非西洋のシネマをどう理解すべきかという、極めて西洋中心的な問いによる言説の歴史であったと言える。ボードウェルは、1980年代末に出版された彼の小津研究の中で、形式主義的な分析の枠組みを維持しながらも、以後は日本社会独自の文脈に基づいた、実証的な歴史研究への展開を予想しているが、それは振り返って考えれば、小津研究に限らず、映画研究全般の行方を指し示していたのであった。

本書が目指したのは、ボードウェルの提案を出発点として、それ以後何十年間も映画研究の大きな流れになってきた「社会的、歴史的研究論」を、小津に適用することであった。つまり、小津映画の「日常」を「歴史化」して考察することによって、その意味を、「無」や「禅」などあまりにもオリエンタリズム的な視点の呪縛から解放する試みである。そのために私が持ち込んだのは、皮肉にも欧米の文化研究理論であり、殊に2000年代に盛んになった「日常」を対象にした議論――戦時期のドイツや戦後1950、60年代のフランスの理論を用いたもの――が拠り所となった。「日常批判理論」とも呼べるこのような文化研究を通して、私は小津映画の日常の時空間とその中を生きる多様な主体に焦点を合わせ、その意味を、変化し続ける日本現代史の文脈において解釈しようとしたのである。結果的に小津の日常は、何も起こらない真空から、異なる階級やジェンダー、そして世代の物語が絶えず衝突する、よりダイナミックな時空間として見直すことができたと思う。

小津映画研究を「現代化」する

現在では見慣れているかもしれないこのようなアプローチを用い、小津という古典的なテーマを分析した本書の試みが、現在の日本における小津研究あるいは映画学の文脈の中で、どのような意味を持ちうるのか、もしかしたら「ただの、もう一つの小津本」になってしまうのではないか、という不安も感じる。ノン・ネイティヴとしての様々な壁を乗り越えるために不可欠なはずの誠実さにあまりに乏しかったことも、正直に認めざるをえない。にもかかわらず、本書を通じて一つだけ期待することがあるとすれば、より広い可能性に向けて開かれたテクストとして小津映画を研究することが今後も活発に試みられることである。「視線の不一致」など、スクリーン上で見える事件のみに限定されるには、彼のシネマの語る意味はあまりに深く豊かであるからだ。本書で論じてきたように、小津の日常を、社会性をもった一種のリアリズムとして解釈するのが果たして妥当なのかどうかという点は、もちろん議論の余地がある。私が提示したかったのは、そのような観点が正しいか否かということよりも、むしろ、より多面的な小津研究のためには、複合的なアプローチの効用を受け入れなければならないということであった。

すでに、小津研究における「現代化」を目指す新たな取り組みが、日本の内外で始まっている。とりわけ、最近の10年間において目立っているのは、日本映画のカテゴリーを越える「トランスナショナル・シネマ」として小津を理解しようとする動きであろう。それには、小津のテクストを中心としてその中に見られる外国の影響を探る研究(與那覇潤の『帝国の残影』や滝浪佑紀の『小津安二郎――サイレント映画の美学』)だけでなく、逆にワールド・シネマを対象としてその中に小津の影響をたどる研究(チェ・ジンヒのReorienting Ozu)も含まれている。また、最近の日本における小津関連書の出版ブームともいえる状況を考えれば、その言説を対象とするメタ言説的な研究の必要性もますます高くなっていくと予想される。そういった「トランスナショナリズム」や現在の日本を対象にする内容は、本書ではほとんど取り組めなかった方向性であり、この日本語版を準備する段階でも反映することができなかったのはまことに心残りであるが、その点については、機会があれば別のかたちであらためて論じてみたい。

[書き手]朱宇正(韓国・ソウルに生まれる。現在、名古屋大学大学院人文学研究科超域社会文化センター共同研究員)
小津映画の日常―戦争をまたぐ歴史のなかで― / 朱 宇正
小津映画の日常―戦争をまたぐ歴史のなかで―
  • 著者:朱 宇正
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(356ページ)
  • 発売日:2020-10-06
  • ISBN-10:4815810028
  • ISBN-13:978-4815810023
内容紹介:
無の美学から日常の政治性へ――。小津は保守的で日本的なのか。だとしても、それはどういう意味でか。映画産業との関係を含め、大不況や戦争、復興など、近代性と葛藤する同時代の日本の歴史的文脈の中、それとせめぎ合う作品を精緻に読み解き、新たな小津像を提示した国際的力作。

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