ヒト生物学、世界を一つにする力に
人間とは何か。これまで哲学や宗教など人文学のものとされてきた問いを科学に持ち込めるようになったのが二十一世紀だと言ってよいのではないだろうか。本書で語られるのは人体であり、具体的には細胞、胚、臓器・器官系、脳、マイクロバイオーム(微生物叢(そう))、ゲノムの六つである。まさに即物的で、そんなもので人間が分かると思うのは自然科学者の無知と鼻持ちならない傲慢さだと言われそうだ。もちろんこれで人間が分かるとは思わない。しかし、ここで示される「ヒト生物学」の成果を抜きにして人間を語ることはできないのも確かである。著者は「新しい科学の影響で、私たちの人生観が変わる――そういう状況は、必然的に、今後ますます増えていくだろう」と言う。
まず、細胞を見よう。光学顕微鏡には分解能の限界があり、細胞内の営みを直接観察することは不可能とされてきたのだが、今や超高分解能顕微鏡が開発され、「ナノ規模の人体解剖学」と呼べる分野が生まれている。そのきっかけは日本人なら誰もが知っている(と思う)下村脩のクラゲの発光タンパク質の発見である。青色を吸収して緑色に光るこのタンパク質(GFP)を細胞内の成分に結合させて可視化するのだ。細胞内を観(み)る顕微鏡づくりを夢見て、ガレージで自費研究をしていた元ベル研究所での仲間でもあったヘスとベツィグがGFPを知ってそれを利用した顕微鏡を製作した。実はドイツのマックス・プランク生物物理化学研究所のヘルはGFPに二本のレーザービームを当てて小さな範囲の分子を浮かび上がらせる顕微鏡を開発していたのだが、権威ある科学誌からは無視されていた(ベツィグとヘルはノーベル化学賞を受賞)。
研究者はそれを待っていたのだ。細胞内の可視化技術の活用で次々と新事実が明らかになった。その一つに「細胞は遺伝子物質とタンパク質が入った小さな袋を放出して他の細胞とのコミュニケーション手段にしている」という事実がある。以前は不要物を捨てる役をすると考えられていた小胞が、細胞間での物質のやりとりによってさまざまな細胞を統合していることが分かったのだ。ダイナミックな人体像が見えてくる。
この分野を切り開いたのが数人の異端児であり、大規模研究や政府主導戦略研究ではないことを著者は強調する。本書は研究者個人と協力する仲間の力に注目して書かれており、それもお勧めの点だ。
次は胚研究。マウスを用いて、四細胞期にはすでにこれは体になる、胎盤や卵黄囊(のう)になるなど細胞の運命が決まっているという新事実を示した女性研究者は、その時妊娠しており、絨毛(じゅうもう)膜標本採取(CVS)検査で胎児に染色体異常が見られた。その後の羊水検査では異常がなく息子が誕生するのだが、この体験が彼女を胚を培養可能にして詳細を知る研究へと駆り立てた。十一日目に自己組織化を始めることを知った彼女は十二日目で実験を止める。人間として、とくに女性としての判断が見えて心動かされる。ゲノム編集という技術もある今、胚研究が進む中で子どもの誕生をどのように考えるのか。その選択は決して易しくない。
次章では、第三子がダウン症であった夫婦研究者が、細胞を更に詳細に知りたいと願って、組織、器官などから単一の細胞群を精製する細胞選別機の製作に情熱をかける。これが契機となり、体内の細胞の所在とそこではたらいている遺伝子を同定し、細胞間の関係や相互作用を知ることで人体のはたらきを見ていこうとするヒト細胞アトラス・プロジェクトが始まった。
脳細胞も赤、緑、青の蛍光タンパク質を用いたブレインボー法で脳の配線すべてを見ようという研究が進められている。また遺伝子工学により光で活性化する物質を脳細胞で発現させ、光によって興奮、抑制する光遺伝学の方法は、脳細胞のはたらきを知るだけでなく操作も可能にしている。期待と恐れが絡まるのが人体研究の特徴だ。
人体内には多様な細菌が存在し、その遺伝子数はヒト本来のものの約千倍と言われている。人体内の微生物叢は食事や運動によって変化し健康状態を決める。腸内細菌は免疫細胞の攻撃を免れるだけでなく、免疫系の発達と存続に力を貸していることが分かってきた。細菌以外に真菌やウイルスもはたらいている。
人体について多くを知ることになった現状が見えてきた。著者が本書を著したのは、ある女性が父親から結合組織疾患に関わる遺伝子を受け継いでいることを知り、ここまで分かったうえでなお、人間としてどう生きるかという重要な課題を見つめる意味が存在することを示したかったからだとある。
個人にとっても社会にとってもヒト生物学を知り、それを議論することが重要になっている。それが「世界を分断させる新たな火種にならないように注意深く監視し」、むしろ世界を一つにする力にすることが大事だ。分からないことが山ほどあることを肝に銘じながら、科学を全体を見る切り口として生かしていくことの重要性に注目したい。