科学者の本質と開発者の行動力
2019年の暮れに中国武漢で感染が始まった新型コロナウイルスとのつき合いは、いつまで続くのだろう。マスク・手洗いをして人との接触を避けるという受け身の形でしか対応できないための無力感が辛い。そこで頼りになるのがワクチンである。評者も、ファイザー社のワクチンを二回接種した。本書は、このワクチンを11カ月という異例の速さで接種可能にした開発物語だ。速さの理由は、これがmRNAワクチンというまったく新しいタイプのものであることと、常に科学者の本質を忘れない開発者の発想と行動力とである。「このワクチンを構成する最も重要な要素は、RNAではない。ウール・シャヒンとエズレム・テュレジという二人の人間なのだ」という結びに、心底同感する。
共にトルコからドイツへの移民の子である二人が、がんの共同研究を始め、その多様性に対応するには「患者各人に合わせて調整できるワクチン技術の開発」が必要と考えて、目をつけたのがmRNAだ。マインツ大学で研究室を与えられた二人は、結婚し、2001年にはがん細胞を攻撃するモノクローナル抗体の開発企業ガニメドを立ち上げ成功させる。2008年にはmRNA技術によるがん治療をめざすビオンテック社を設立した。二人共、基礎技術の確立とその医療への応用に強い関心があるのだ。
2020年1月に新型コロナウイルス感染の情報に接したウールは、即パンデミックを予測し、ウイルスの遺伝子解析の結果を見てmRNAワクチン開発に向けて動き出す。インフルエンザウイルスの研究を試みていた程度なのだが、がん研究での経験を生かせると考えたのだ。社内の体制を変え、外部の力を積極的に取り入れ、資金調達をしていく決断の見事さには目を見張るものがある。
ライトスピード(光速)と名付けたプロジェクトは、2月には20種のワクチン候補を設計し、その中の4種を治験に選んだ。そのうちの一つ、ウイルスのスパイクタンパク質全体をコードするmRNAが、ほぼ完璧なワクチン候補と分かる。壊れやすいmRNAを細胞内に忍びこませるために保護する脂肪酸組成物が開発済みなどの条件が整っていたこともあってその先は着実に進み、5月末には効果が確認される。
ワクチンの実用化までには大量生産、大規模な治験など、通るべき関門がいくつもある。ビオンテックは、インフルエンザワクチン開発でファイザー社と提携していた。ウールと話し合ったファイザーの担当者は「二人とも科学に動かされているので気が合ったのです」と語る。新型コロナに協力関係を広げる際も、同じく人間的信頼が大事にされた。開発の期間を通して常に科学と人間性が重視されているのが気持ちよい。開発チームは60人もの専門家などで構成され、半数以上が女性だった。
ドイツには少ない「研究から起業への長い道のり」を歩んだ二人は、急騰した株も手放さず質実な暮らしを続けているという。科学と人間性を重視しながら研究から実用までを進める過程を追いながら、今の日本では難しい、ここに学ぶことは多いと考え続けていた。