前書き
『マイ・ストーリー』(集英社)
世界45言語で1000万部を突破した、ミシェル・オバマ元アメリカ合衆国ファーストレディの回顧録。夫バラクの回顧録よりも先に発売されたこと、異例の売れ行きで社会現象となったことで注目されている。国籍、年齢にかかわらず多くの人が「これは私の物語でもある」と心を揺さぶられた理由はどこにあるのか。
結局、自分の職業には弁護士を選んだ。その後は病院の副院長と、若者のキャリア形成を支援する非営利団体の理事長も務めた。私は労働者階級出身の黒人学生だったけれど、学んだのは白人がほとんどのエリート大学だった。部屋の中で女性は私だけ、アフリカ系アメリカ人は私だけ、という状況をさまざまな場面で経験した。花嫁、育児ストレスを抱える母親、親を亡くし悲嘆に暮れる娘にもなった。そして最近までは、アメリカ合衆国の大フアーストレデイ統領夫人だった。これは正式な職業ではないけれど、おかげでそれまで想像もしなかったような環境に身を置くことになった。この立場になって、悩んだり傷ついたり、気分が高まったり落ち込んだり、ときにはそのすべてがない交ぜになることもあった。あの数年間の出来事については、ようやく整理がついてきたところだ。二〇〇六年に夫が初めて大統領選出馬を口にした瞬間から、メラニア・トランプとリムジンに乗り込んで彼女の夫の大統領就任式に向かった寒い冬の朝まで、本当にたくさんのことがあった。
ファーストレディになると、アメリカという国を極端な形で見せつけられることになる。資金集めパーティーが開かれる個人の邸宅はまるで美術館のようで、浴槽が宝石で飾られていることもあった。ハリケーン・カトリーナですべてを失った人々は、涙に暮れながらも冷蔵庫とガスレンジを使えるだけでありがたいと言っていた。浅はかで偽善的だと思える人々に出会う一方、軍人の配偶者や教師など、驚くほど深く強い心を持った人たちもたくさんいた。また、世界じゅうで大勢の子どもたちに会い、今も思いきり笑わせてもらったり心を希望で満たしてもらったりしている。そんな子どもたちにとっては、一緒に庭の土をいじりはじめれば私の肩書など関係なくなる。
とまどいながら公人としての一歩を踏み出して以来、私は世界で最もパワフルな女性として持ち上げられたかと思えば、「怒れる黒人女性」と見下すように言われたりもした。私を批判していた人たちには、「怒れる」と「黒人」と「女性」のどれが最も気に入らなかったのか訊いてみたいと思ったものだ。全国テレビで夫のことを悪く言う人が相手でも、暖炉の飾り棚に置く記念写真を撮らせてほしいと頼まれれば笑顔で一緒にポーズを取った。私のすべてを勘ぐる陰湿な書き込みがインターネット上にあふれ、本当は男ではないかとまで疑われた。現職の下院議員にお尻の大きさを揶揄されたこともある。傷ついたことも、激しい怒りを感じたこともあった。それでも、たいていは笑って受け流すよう努めた。
アメリカについて、人生について、これからの未来について、わからないことは今でもたくさんある。でも、自分自身のことはよくわかっているつもりだ。父のフレイザーからは、一生懸命働き、よく笑い、約束を守るよう教えられた。母のマリアンからは、自分の頭で考え、自分の言葉で意見を述べることを教わった。シカゴのサウス・サイドの狭い部屋で一緒に暮らした両親のおかげで、私たち家族、私自身、そして自分たちの国の価値を理解することができた。きれいでも完璧でもない部分、理想どおりにはいかない部分があっても、自ら紡いできた物語こそが自分自身であり、これからも変わらない、大切なものなのだ。
はじめに 二〇一七年三月
子どものころの憧れは、どれも無邪気なものだった。犬を飼ってみたかった。二階建ての家に、うちの家族だけで住みたいと思っていた。父の自慢の愛車、ツードアのビュイックより、フォードアのステーションワゴンのほうがなんとなく素敵に思えた。周りの人たちには、大きくなったら小児科のお医者さんになるの、と言っていた。小さな子どもが好きだったし、大人がみんな嬉しそうに聞いてくれたから。まあ、お医者さん! すごいわね!と。おさげ髪の私は兄にあれこれ命令し、学校の成績はいつもオールAだった。本当は何になりたいかはまだわからなかったけれど、向上心でいっぱいだった。今は「大人になったら何になりたい?」と子どもに訊くのは意味のないことだと思う。まるで、大人になるのが一度きりのことだと言っているようだから。人生のどこかの時点で何かになったらそれでもう終わり、とでもいうように。結局、自分の職業には弁護士を選んだ。その後は病院の副院長と、若者のキャリア形成を支援する非営利団体の理事長も務めた。私は労働者階級出身の黒人学生だったけれど、学んだのは白人がほとんどのエリート大学だった。部屋の中で女性は私だけ、アフリカ系アメリカ人は私だけ、という状況をさまざまな場面で経験した。花嫁、育児ストレスを抱える母親、親を亡くし悲嘆に暮れる娘にもなった。そして最近までは、アメリカ合衆国の大フアーストレデイ統領夫人だった。これは正式な職業ではないけれど、おかげでそれまで想像もしなかったような環境に身を置くことになった。この立場になって、悩んだり傷ついたり、気分が高まったり落ち込んだり、ときにはそのすべてがない交ぜになることもあった。あの数年間の出来事については、ようやく整理がついてきたところだ。二〇〇六年に夫が初めて大統領選出馬を口にした瞬間から、メラニア・トランプとリムジンに乗り込んで彼女の夫の大統領就任式に向かった寒い冬の朝まで、本当にたくさんのことがあった。
ファーストレディになると、アメリカという国を極端な形で見せつけられることになる。資金集めパーティーが開かれる個人の邸宅はまるで美術館のようで、浴槽が宝石で飾られていることもあった。ハリケーン・カトリーナですべてを失った人々は、涙に暮れながらも冷蔵庫とガスレンジを使えるだけでありがたいと言っていた。浅はかで偽善的だと思える人々に出会う一方、軍人の配偶者や教師など、驚くほど深く強い心を持った人たちもたくさんいた。また、世界じゅうで大勢の子どもたちに会い、今も思いきり笑わせてもらったり心を希望で満たしてもらったりしている。そんな子どもたちにとっては、一緒に庭の土をいじりはじめれば私の肩書など関係なくなる。
とまどいながら公人としての一歩を踏み出して以来、私は世界で最もパワフルな女性として持ち上げられたかと思えば、「怒れる黒人女性」と見下すように言われたりもした。私を批判していた人たちには、「怒れる」と「黒人」と「女性」のどれが最も気に入らなかったのか訊いてみたいと思ったものだ。全国テレビで夫のことを悪く言う人が相手でも、暖炉の飾り棚に置く記念写真を撮らせてほしいと頼まれれば笑顔で一緒にポーズを取った。私のすべてを勘ぐる陰湿な書き込みがインターネット上にあふれ、本当は男ではないかとまで疑われた。現職の下院議員にお尻の大きさを揶揄されたこともある。傷ついたことも、激しい怒りを感じたこともあった。それでも、たいていは笑って受け流すよう努めた。
アメリカについて、人生について、これからの未来について、わからないことは今でもたくさんある。でも、自分自身のことはよくわかっているつもりだ。父のフレイザーからは、一生懸命働き、よく笑い、約束を守るよう教えられた。母のマリアンからは、自分の頭で考え、自分の言葉で意見を述べることを教わった。シカゴのサウス・サイドの狭い部屋で一緒に暮らした両親のおかげで、私たち家族、私自身、そして自分たちの国の価値を理解することができた。きれいでも完璧でもない部分、理想どおりにはいかない部分があっても、自ら紡いできた物語こそが自分自身であり、これからも変わらない、大切なものなのだ。