前書き

『本当は偉大だった 嫌われ者リーダー論』(集英社)

  • 2020/01/22
本当は偉大だった 嫌われ者リーダー論 / 鹿島 茂
本当は偉大だった 嫌われ者リーダー論
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:集英社
  • 装丁:単行本(448ページ)
  • 発売日:2019-12-13
  • ISBN-10:4087860779
  • ISBN-13:978-4087860771
内容紹介:
仏のド・ゴール大統領、宰相リシュリュー、最後の将軍徳川慶喜…、激動の時代に国の岐路に立たされ決断した5人のリーダーの物語。

リーダーの要件は「決断」にある

国だろうと企業だろうと、トップに立つ人間のなすべきことは決まっている。
「決断」である。これ以外にはない。
「決断」こそがトップに委ねられた唯一の仕事なのであり、ほかの仕事など、実はどうでもいいとさえ言える。
だが、決断というのは、常に「苦渋の決断」というかたちを取る。
すなわち、さまざまな選択肢を検討し、それぞれの選択肢のプラスとマイナスを秤にかけ、その選択肢を選んだ場合の国内外(社内外)の反応を予想し、さらに遠い未来における影響まで考慮にいれてもなお簡単には結論が出ないような、そんなときにこそトップは「決断」を下さなければならないのだ。
言い換えれば、トップが決断を迫られるような状況というのは、どの選択肢を選んでも、必ずや選ばれなかった一方から激しいブーイングが浴びせられ、下手をすれば革命や反乱にまで発展しかねない危機的状況と決まっているのだ。
いや、一方だけからの反発だけならまだいい。ときとしては、国民(社員)全員から猛烈に反対され、売国奴扱いされて、ソッポを向かれるようなことさえある。たとえば、マスコミに煽られた国民が戦争に向かって熱狂しているようなとき、トップが非戦を選ぶとしたら、国論の分裂どころか、暗殺の危険さえ出てくる。
さらに厄介なのは、なすべき「正しい選択」が自分の支持基盤の利益に反しているような場合が少なくないことだ。支持基盤の利益代表としてトップの座に上りながら、その支持基盤の利益をストレートに反映した決定を行えないようなケースはざらにある。
私的利害と公的利害、地域の利害と国の利害、国の利害と国際社会の利害、現在の利害と将来の利害、これらが常に矛盾するような構造になっているからだ。個人にとって良きものが共同体にとって良きものとは限らない。現在に良いことが未来にも良いこととは限らない。極端に言えば、同じ利害を共有している共同体だとしても、そのトップに立つ人間が共同体の利害とは反する選択を行わなければならないようなことも十分にありうるのだ。

つまるところ、個と集団は宿命的な対立構造にあるということなのだ。
したがって、集団のトップに立つということは、この宿命的な対立構造を引き受けるということを意味する。その対立構造は、いくら議論をし尽くしたとしても解消される類いのものではなく、人類が人類として生存しはじめたときから存在する一種の宿命であり、民主主義という「合議制」ではどうあっても解決不可能な問題なのである。
ゆえに、決断とは、表面的には、どうしても一方の利害集団に味方して、もう一方の利害集団を切り捨てるかたちを取らざるをえない。
当然、切り捨てられた一方は激しくいきり立ち、分裂が可能な場合は分裂行動を選び、分裂が不可能な場合は暴力的な抗議行動に出る。
血を見ることもあろうし、死人が出ることもあるだろう。そして、そうなったら最後、対立は固定され、後々に禍根を残す。ことほどさように、決断とは、例外なく、ある種の「悪」を引き起こさずにはいないものなのである。

問題は、トップが決断したことで引き起こされるその「悪」が
・長期間続くか、
・それとも短期間で終息するか、
・それを事前に予想できるか否か、
にかかっていることだ。
ただ、いずれにしても、「悪」が伴わない決断というのは存在しないのであり、「悪」をなすことを嫌っている限り、決断など絶対にできないのである。いいかえれば、トップに立って決断を下す者は必然的に「悪」をなす「嫌われ者」となる運命なのである。

だが、そうなると、トップに上りつめるために築いてきた名声は一気に地に落ちることになる。敵から憎まれるのは当たり前としても、味方からも「失望した」「こんな人ではなかったはず」と離反される。ようするに、決断を行ったがために、誰からも鼻つまみにされ、憎悪される「嫌われ者」となるのだ。
したがって、決断するとは、「嫌われ者」となることと同義なのである。

マキャヴェリは、この点について極めて明快にこう述べる。

一つの悪徳を行使しなくては、政権の存亡にかかわる容易ならざるばあいには、悪徳の評判など、かまわず受けるがよい。というのは、よくよく考えてみれば、たとえ美徳と見えても、これをやっていくと身の破滅に通じることがあり、たほう、表向き悪徳のようにみえても、それを行うことで、みずからの安全と繁栄がもたらされる場合があるからだ。(マキアヴェリ『君主論』(池田廉訳)中公クラシックス)

とはいえ、通常の神経の人間にとって「悪」をなし、「嫌われ者」になるということはできれば避けたいことである。よって、普通の人間がトップの座に立った場合には、たいていが「先送り」という選択がなされる。優柔不断だからというのではないし、思慮が足りないからというのでもない。むしろ、良心的で、まっとうな神経の人間であるからこそ、決断の引き起こす「悪」の影響が予想でき、それゆえに「嫌われ者」にはなりたくないという心理が働いて、決断が先送りされるのだ。
しかし、歴史が証明するところでは、先延ばしすればするほど、決断は困難になるという法則がある。この時点で決断していれば、まだ引き返せたのに、結論を先延ばししたために、次の時点ではより大きな「悪」を生み出すことになり、その大きすぎる「悪」ゆえにまた決断が遅れるという悪循環に陥る。
だが、永遠に先延ばしすることはできない。いつかは誰かが決断をしなければならない。決断をしないでいたら、集団そのものが自己崩壊することは目に見えているからだ。

ゆえに、決断するなら早い方がいい。
みんなの意見を聞いてからなどと悠長なことを言ってはいられない。
各人、立場によって利害が異なっている以上、みんなで議論を重ねるうちに意見が一つの方向に収斂してくるなどということはありえないのだ。
それに、早期の決断と果断な実行があれば、「悪」も必要最小限で済ませられるかもしれないのである。

マキャヴェリは言う。

残酷さがりっぱに使われた――悪についても、りっぱに、などのことば遣いが許されれば――、というのは、自分の立場を守る必要上、残酷さをいっきょに用いて、そののちそれに固執せず、できるかぎり臣下の利益になる方法に転換するばあいをいう。(同前)

決断に「悪」は不可欠である以上、その悪は「りっぱに」、「残酷さをいっきょに用いて」行われなければならないのである。早期に正しく「悪」を用いることこそが「決断」なのである。
だが、言うは易く、行うは難し、で、日本のような根回しによる全員一致を最善の美徳とする風土にあっては、「悪」を伴う決断が実行されたケースは非常にまれである。その反対に、決断すべきときに決断しなかったために、国家存廃への道を歩んだ「十五年戦争」のような例の方が多く目につく。
そこで、本書では、歴史、それも外国の歴史に目を転じて、「悪とセットになった決断」を「りっぱに」行い、その結果、ひどい「嫌われ者」にはなったが、後に、歴史がその決断の正しさを証明するに至った「真の偉人」を探してみようと思う。

探索の軸を縦軸(歴史軸)と横軸(地理軸)に動かせば、こうした「本当は偉大だった嫌われ者」というのも発見できなくはないのである。
本当は偉大だった 嫌われ者リーダー論 / 鹿島 茂
本当は偉大だった 嫌われ者リーダー論
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:集英社
  • 装丁:単行本(448ページ)
  • 発売日:2019-12-13
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  • ISBN-13:978-4087860771
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