自己肯定へ…周縁から本質を見つめる
不平不満はできるだけ言わないほうがいいとされる。怒るのもよくない。文句を言うな、我慢しろ、世の中のルールに従え、と親や教師は言う。最近は、不遇なのは努力不足のためで、おまえ自身のせいだ、自己責任だ、などと顔も知らない誰かからSNSで叩かれる。だが、それは間違っている。誰かが不平不満を叫ぶことで、世の中の不条理や矛盾が顕在化する。怒る人がいることで、困っているのは自分だけでないのだと知る。
虐げられた者の反逆は正しい。自己責任だぁ? そんなものはクソ食らえ! 『パンクの系譜学』を読んで、ぼくは久しぶりに荒ぶる気持ちになった。この真っ黒な本は、パンクという音楽がどのような背景で誕生し、変化を遂げてきたのかについての考察である。
パンクというと、異様なファッションに身を包んだミュージシャンによる騒々しくて禍々しい音楽をイメージする人が多いだろう。髪を逆立て、鼻や唇にピアス。黒革のジャケットからは棘(とげ)が出ている。鋭い目つきで客を睨み、中指を突き立てて攻撃するように歌う。激しいビートの曲は歌詞をよく聴き取れないが、とにかく何かに怒っていることだけは伝わってくる……こんな感じだ。少なくとも、ゆっくりご飯を食べるときのBGMには向かない。
一例を挙げるならセックス・ピストルズ。パンクの代名詞ともいうべきバンドだ。バンド名もすごいが、彼らの音楽やアートワークの衝撃力はそれ以上だ。たとえば2枚目に出したシングルのタイトルはイギリス国歌と同じ「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」で、ジャケットは女王の肖像と国旗が素材。歌詞には「お先真っ暗だ」とある。セックス・ピストルズのマネージャーはマルコム・マクラーレンで、彼はヴィヴィアン・ウエストウッドとブティックをやっていた。のちにヴィヴィアンは20世紀を代表するファッション・デザイナーのひとりとなる。
もっとも、この本には有名なバンドやミュージシャンのことはほんの少ししか出てこない。破天荒なパンクロッカー列伝を期待した人はがっかりするかもしれない。「はじめに」で著者は<本書の目的は、パンクを通して全ての人々が自己を肯定でき、それぞれの持つ可能性が開かれる社会を作ることに与(くみ)することである。それゆえ、周縁のシーンを中心に取り上げていく>と述べている。周縁にこそ本質がある。
著者によると、パンクの思想的なルーツはアナキズムだという。プルードン、バクーニン、そしてクロポトキンがパンクの祖先だ。マルクスの影響もある。どうすれば公平で自由で生きやすい社会が実現するのかを追い求めていくとアナキズムに行き着く。誰かに搾取されるような状態を徹底的に否定するという点でパンクとアナキズムは同じだ。そういえば(本書には出てこないが)日本にはアナーキー(亜無亜危異)という名のバンドがあった。デビュー当初は国鉄の作業服を着て演奏していた。
DIY(Do It Yourself)というと日曜大工を連想するが、これもパンクの重要な要素だ。たとえばZine(ジン)と呼ばれるミニコミを自分たちで作る。できるだけ資本主義には背を向ける。大手レコード会社とは契約せずに、インディーズ(独立系)レーベルや自主制作でレコードやCDを出す。自分たちの表現活動を他人まかせにしない、とりわけ企業には預けないという考えからだ。自律と自主独立がパンクロッカーの矜持である。
パンクの音楽的なルーツはアフリカ系アメリカ人の文化にあるという指摘も意外だ。アフリカから拉致され奴隷にされた彼らが、単調で過酷な労働のなかで歌ったワークソングは、連帯と抵抗の音楽である。やがてそれがブルースになっていく。また、フォークミュージックも資本主義への抵抗としてパンクのルーツのひとつだという。
アートにおけるパンクのルーツはダダ。ダダは1910年代、アナキストで詩人のフーゴ・バルらによってチューリッヒで始まった。その舞台となったキャバレー・ヴォルテールでは前衛的な絵画が展示され、意味不明の音響詩が朗読された。ダダは世界中に広がっていった。なるほど、ダダはパンクである。前衛音楽、実験音楽も含めて、現代アートとパンクの縁は深い。海外でも日本でも、アートスクール出身のミュージシャンは多い。
本書を読むとパンクに対する見方や考え方が変わる。パンクはポップミュージックの一ジャンルというよりも、総合的な文化運動だ。パンクは思想であり、アートであり、生き方である。そのことをこの本は教えてくれる。
パンクは現在進行形だ。フェミニズムと結びつき、人種差別反対運動と結びつき、クィア(性的マイノリティー)の解放運動とも結びついていく。インドネシアやミャンマーなどの抵抗運動とのつながりも報告されている。搾取や差別や抑圧がある限り、パンクは永遠に続く。怒ることを我慢してはいけない。不平不満は言わなきゃいけない。