民主主義者になれるか「実験」
愉快な長編小説。笑いとスリルとサスペンスの連続。そして、深く考えさせられる。1946年11月の東京・下落合。子爵夫人の屋敷に4人の若い女性が集められ、GHQによる非公式の「実験」が始まる。目的は、じゅうぶんな食事と安心して眠れる住まい、寒さをしのげる衣服が与えられ、民主主義のレクチャーを受けたなら、日本人でも民主主義者になれるかどうかを明らかにすること。なんだか映画「マイ・フェア・レディ」を連想する。実験期間は半年。つまり日本国憲法の公布から施行までの間だ。
集められた4人は年齢こそ20歳前後で共通しているが、出身地も育った環境も現在の境遇も異なる。GHQ翻訳通訳部で働く元男爵家の娘。かつては典型的な軍国少女で、住み込み家政婦をしている小作農の娘。出征した夫が帰らず、ダンスホールで働く洋裁店の娘。青森から上京して上野駅で野宿する「パンパン・ガール」。4人とも戦争で住まいや家族を失っている。
4人を教えるよう上官から命じられる「わたし」は日系アメリカ人。日本語学校の元教師で現在はGHQ民政局の通訳。つまり民主主義教育については素人だ。ホッブズやロック、ルソー、トクヴィル、デューイなどの著作を取り寄せ、にわか仕込みの知識で民主主義の歴史を講義する。
しかし、生徒たちの態度はバラバラ。熱心にノートを取る娘もいれば、寝てばかりいる娘や鼻歌まじりで手鏡を見ている娘もいる。
教える「わたし」も心中は複雑だ。戦時中のアメリカでは日系人として差別され、強制収容所に入れられた経験がある。黒人差別などが根強く残っていることもよく知っている。はたして民主主義や自由や平等を教える資格がアメリカ人にあるのか。
「実験」の場として広大な屋敷の一部を提供する子爵夫人も、たんなる善良な篤志家ではない。GHQに協力することで土地と屋敷の接収をまぬがれ、さらには世間の注目と称賛を浴びたいと思っている。「わたし」の上司である少佐もなんだか腹黒そうだ。
食糧横流し疑惑や「チョージローのクロラク」盗難事件、メンバー交代など次から次へと騒動が起きる。しかし、トラブルを乗り越えて娘たちは変わっていく。「わたし」が考えたカリキュラムとはいささか違うところで自分の民主主義を体得して。読者も「民主主義とは何か」と問いながらページをめくるだろう。
子爵夫人が4人にコーラス隊を結成させようと言い出したことで物語は急展開していく。国際婦人デーのイベントで民主主義を讃(たた)える歌を歌おうというのだ。子爵夫人の目的は自分が称賛を浴びるため。ところがこれが子爵夫人や「わたし」、そして4人娘自身の予想を超える結果をもたらす。ついには自分たちを支配しようとする強大な敵と戦う。
敗戦後80年というタイミングでこの小説があらわれた皮肉を感じずにはいられない。かつて日本人に民主主義を与えようとしたアメリカの惨状はどうだ。「実験」が始まって1カ月半がたったころ「民主主義」理解度テストを受けたひとりは、多数決の短所として「バカが多いとこまっちゃう」と書いた。ここははたして笑うところか? とぼくは絶句する。