熱い教育論が飛び交う、戦後史にして大河ロマン
日本における学習塾の変遷、その塾の経営者三代の奮闘、女系家族の確執、理想の教育……本書は実に重奏的なテーマを含んでいるが、全ての主音が合わさり見事なメロディとなって奏でられる。スケールの大きな小説だ。昭和三十六年。教員免許はないが、抜群の教える「才」を持つ大島吾郎は、小学校の用務員室で生徒の補習を行っていた。ある日生徒の蕗子の母・赤坂千明から自分の立ち上げる学習塾へ来て欲しい、と頼まれる。
千葉の一軒家を借りて始めた塾経営は、半年ほどで波に乗り始める。一方、新聞では「塾は受験競争を煽る受験屋だ」「塾は実のない教育界の徒花だ」というコラムが掲載されていた。
千明が公教育を嫌う理由は、国民学校で国への忠誠心を植え付けられた六年間を忘れられずにいたからである。教育とは、国の根幹であり、人を作ることに直結する。戦後その教えが一変したことで、千明は学校教育以外の教育を模索し、塾の経営に海路を見いだす。
こうして吾郎と千明は学習塾という小さな舟で教育界という大海にこぎ出したが、吾郎はあくまで補習、千明は進学と目的地がはっきりとしている。ならば二人のどちらかが舟を降りなければならない。
結婚した二人の元、育った長女蕗子、吾郎と千明の間に生まれた次女蘭、三女菜々美は両親の影響を受け、自分なりの教育論を築いていた。母への反発から家を出た蕗子は「理想の教育」について母に問う。
「理想理想ってお母さんは言うけど、本当にそんなものがあるんですか。あるとしたら、どこに?」
理想の教育は母の幻想だと蕗子は切り捨てる。時代と共に補習塾から進学塾へと舵を切っていくが、これは公教育に従った結果だ。受験戦争が過熱する中、公教育を否定しながら、塾はその跡を追うしかなくなっていく。理想の教育を見失ったまま――。
団塊のジュニア世代で小中学校と公教育を受け、塾には行ったことがないわたしが本書を読んで羨ましい、と思う場面がいくつかあった。それは学校の授業について行けない生徒が、学ぶことで理解する喜びを表わすところだ。この喜びを知るか知らないかによって、この先の学ぶ力は随分変わっていくだろう。
教育とは、教え育てることでその人に内在する資質や能力を発展させ、もっと学びたい欲求を生み出していく。そんな無限ループによって結果的に自分を高めていくことだと思う。
学ぶ喜び、そして導く喜びが本書の中でキラキラと光っていた。