書評

『マルセル・デュシャンとチェス』(平凡社)

  • 2018/07/24
マルセル・デュシャンとチェス / 中尾 拓哉
マルセル・デュシャンとチェス
  • 著者:中尾 拓哉
  • 出版社:平凡社
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(396ページ)
  • 発売日:2017-07-27
  • ISBN:4582284485
内容紹介:
現代美術の父マルセル・デュシャンの制作論における秘密を、チェスを手がかりに精緻に読み解く、気鋭の美術評論家による力作。

「頭脳的」な造形性の軌跡

モダン・アートに多大な影響を与えたフランスの芸術家マルセル・デュシャンの作品群は、今なお鑑賞者の想像力を刺激してやまない。ある展覧会で、男子用小便器に「リチャード・マット」名で署名したものを出展しようとして物議を醸した事件に始まり、通称《大ガラス》と呼ばれる、未完成のまま制作を放棄した《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》、死後発表された遺作となる、覗(のぞ)きからくりを想わせる《(1)落ちる水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ》まで、デュシャンの制作物はたえずわたしたちに「芸術とは何か」を問いかける、謎でありつづけている。

その一方で、デュシャンは《大ガラス》の制作を中止した後、もっぱらチェスを指すことに没頭していた。それはほとんどの人にとって、芸術を放棄したふるまいのように見えた。たとえ、《遺作》で覗き穴から見える「裸体」がチェス盤の一部を想定した市松模様の床材の上に設置されているという事実を知ったところで、それがデュシャンにおける芸術とチェスとのどのような関連を示唆しているのか、つかめずにいた。つまり、芸術家としてのデュシャンを論じる際に、チェス・プレイヤーとしてのデュシャンは等閑視されてきたのである。

本書『マルセル・デュシャンとチェス』は、題名が指し示すとおり、そのように二分されたデュシャン像を統合しようとする試みである。いやむしろ、チェスというゲームを基軸にして、デュシャンがたどった軌跡を根本的にとらえなおそうとする、大胆な企てだと言ってもかまわない。

チェス・プレイヤーは、盤上に配置された駒を目で見つめながら、その駒がもつデザインや形状を見ていない。なぜならば、チェスのゲームが繰り広げられる空間は、実質的には目前には存在していないからである。

このように著者の中尾拓哉は、チェスを脳内で構成される造形的な運動だととらえる。その脳内の空間は、「プレイ中に思考されている、不可視の方向へと広がる、実際には指されなかった局面の総体」であり、実際に指される個々の指し手は、いわば四次元のオブジェが三次元の空間に投影されたものだと見なされる。こうしたチェスのありようが、従来の絵画に特徴的だった「網膜的な質」を否定し、「頭脳的」な造形性へと進んだデュシャン芸術とぴったり重なる、というのが著者の論点だ。

こうした斬新な視点で見直すとき、デュシャンが個々の作品というかたちで指した一手一手が、デュシャンという「プレイヤー」の一貫した論理的な思考の軌跡として見えてくる。その精緻な記述に厚みを持たせているのが、芸術史、科学史、チェス史といった歴史的な文脈への目配りで、二十世紀初頭に広く流通していた非ユークリッド幾何学と四次元の問題が、いかにデュシャンの制作に影響を与えたかを論じた第三章がとりわけ興味深かった。

デュシャンには、チェスにおける特殊なタイプのエンドゲーム(終盤問題)を扱った、『オポジションと対応するマスは和解する』という風変わりな著作がある。そこでは、黒のキングの動きに対して、白のキングがある論理的な規則を持って動くことが正解になる。評者には、デュシャンという独特な動きをした黒のキング(=制作者)が、その動きに合わせて正しく動いてくれる、中尾拓哉という白のキング(=鑑賞者)をついに見つけたような気がしてならない。本書によって、制作者と鑑賞者は「和解」したのだ。
マルセル・デュシャンとチェス / 中尾 拓哉
マルセル・デュシャンとチェス
  • 著者:中尾 拓哉
  • 出版社:平凡社
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(396ページ)
  • 発売日:2017-07-27
  • ISBN:4582284485
内容紹介:
現代美術の父マルセル・デュシャンの制作論における秘密を、チェスを手がかりに精緻に読み解く、気鋭の美術評論家による力作。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2017年9月17日

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