楽しむ境地が生んだ動物言語学研究室
鳥の言葉について、著者自身の研究史と研究結果が具体的にわかりやすく述べられている。じつに面白いので、多くの人にお薦めしたい書物である。ピーチク、パーチク、鳥が一体なにをしゃべっているのか、不審に思った人は多いのではないか。その割には鳥の言葉については、知られていることが少ない。その理由は動物に言葉なんかあるはずがないという、古代ギリシャ時代以来のヒトの偏見にある。鳥に言葉があったとしても、それはヒトの言葉とは当然違うので、そんなものは言葉じゃない、といつでもいえる。それならどういうものなら言葉といえるか。著者はそれを具体的に、丁寧に解明しようとする。材料はシジュウカラ、実験用具はほとんどなく、まあ動画が撮れて録音ができればいい。実験室は大自然、つまり軽井沢の森、高級リゾートだからいいということではない。一泊五百円で泊まれる大学の山荘があったからというだけ。
この森で大学生時代の著者の奮闘が始まる。とりあえずは巣箱をかけるお金もなく、シジュウカラと他の種の鳥を含んだ混群をただひたすら観察する。
読んでいればすぐに気づくことだが、著者は鳥の観察が大好きなのである。「三度の飯より好き」という表現があるが、実際に著者は軽井沢の山荘で五キロの米だけで数週を過ごしたと書く。おかずなし。むろん徹底的に痩せた。好きこそものの上手なれ、という。でも論語ではさらに上があるとする。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず。好きでやっていても、楽しんでやっている人にはかなわない。著者の鳥研究はまさに「これを楽しむ」の境地に入っている。
「それからというもの、シジュウカラが繁殖に使った巣箱をチェックしていくのが僕の日課となった。巣箱をチェックし、少し離れて観察する。これを繰り返すだけでもいろいろなことに気がつくもので、とても楽しい」。そうした楽しみの過程を読者に素直に説明していくことで、この本ができた。だから科学の本であるのに、難しいところなどどこにもない。著者が野外の観察で疑問に思ったことを自分で解いていく。それが学術論文になり、世界の学会で評価を受け、大学に動物言語学の研究室を創設する結果に至る。
評者の私にとって印象的だったのは、シジュウカラがヘビを示す音声を持つことだった。それを聞かせた後に、細長い木の枝を動かすと、シジュウカラがその木の枝により注意を向ける。つまりヘビじゃないかと思うのであろう。シジュウカラはヘビという概念に近いものを持っているのかもしれない。著者は概念という言葉をおそらく避けている。定義も実証も困難だからであろう。
本書を読んでいて、私はファーブルを思いだした。ファーブルは母国フランスより日本での声価が高いといわれる。ファーブルも著者と同じように、自然の中でただひたすら虫を観察し続けた。現代の日本社会では、おりしも青少年の自殺の増加が報じられている。自然の世界は本書に描かれているように、奥が深いだけでなく、なんとも面白いのだが、それに気づく機会を得ずに、若者が自ら命を絶つのだとすれば、残念なことである。本書は若者にぜひ読んでもらいたいし、学校の先生方にはぜひ生徒に薦めてほしいと思う。