書評
『ストーリーテリングの科学 脳と心をひきつける物語の仕組み』(フィルムアート社)
物語に惹かれていく本性を解き明かす
人間はなぜ物語を必要とするのか? それに対して応答する書物は無数に書かれてきた。本書もその系譜に連なる。しかし従来のように物語に共通のパターンを探りだすのではなく、脳の特徴的な機能や反応などを示しながら、脳が面白がる物語のパターンを特定し、そこから始める。ポピュラーサイエンス寄りの物語論と言える。カズオ・イシグロはガーディアン紙における『わたしを離さないで』の刊行二十周年記念インタビュー(二〇二五年三月)で、「私たちはみないずれ死ぬ運命にある。それでも、まるで死なないかのような顔をして生きなくてはならない」と語った。
私たちがまるで死なないかのような顔をして生きるための仮想手段の一つが物語だと言える。人間は生まれた瞬間から死にはじめる。ある意味、人の生を象(かたど)るあらゆるアートは死に向かうための準備の一環だということは前にも当欄で書いた。
『ストーリーテリングの科学』の著者ストーはこのように言う。
「どう終わるかを、われわれは知っている。自分も、自分の愛するすべての人々も、いずれは死ぬ」
「宇宙で起きている変化がすべてやみ、星々が死に、そして何もかもがなくなり、ただ無限の、完全な、凍(い)てつく無だけが残る」
「しかしわれわれは、そんなふうに人生を生きてはいない。自分たちなりに、われわれの存在が本質的に無意味なことを知ってはいるが、知らないふりをして生きている」
「この恐怖を癒やすのが物語だ」
イシグロの言葉とも共鳴する名文だと思う。
歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、物語こそが人類最古の「情報テクノロジー」だと述べているが、ストーも同様に「石器時代の人々が生きていたころから、言語はもっぱら『社会的情報』の交換をするために進化したと考えられている」と改めて定義している。
つまりは、ゴシップだ。ゴシップという連繋(れんけい)の場から、文学もフィクションも生まれてきた。人間の脳は「物語の加工装置」であって、「論理の加工装置」ではないとストーは言う。
本書は、脳が「いかに自分の内に色あざやかな世界を創造するのか」を検討する第一章、作品の中心となる「欠点のある人物」について見ていく第二章、人間の潜在意識に分け入り、物語がいかにして感情を喚起するかを解く第三章、物語の意味や目的を概観する第四章から成るが、私がいちばん興味深く読んだのは、「神聖なる欠点アプローチ」と題されたかなり長い付録である。
架空人物の「神聖なる欠点」とは、彼らが神聖なものとみなしている、「彼らの壊れた部分」だと言う。イシグロの『日の名残り』の執事スティーブンスは、感情を押し殺した英国人という品格を神聖視していた。ストーは誤った信念がいかに神聖なものと化すかを解説する。
なるほどと思った。それが証拠に、終盤で執事の語りには破れが生じるではないか。イシグロのノーベル文学賞講演によれば、この部分は最初の原稿にはなかった。しかしあるロックシンガーの歌を聴いているうちに、感情の一瞬の吐露が必要だと思い、書き直したのだ。その結果、同作は成功してブッカー賞も受賞し、イシグロは語りの魔術師と呼ばれるようになった。
『ストーリーテリングの科学』は昨今のクリエイティヴ・ライティング講座の興隆に安易に便乗したものではなく、人間が物語に惹(ひ)かれていく本性を解き明かすものだ。とはいえ、やはりゴールは「ひとの共感を生む物語を書くには」という指南であるし、「物語は、愛情にすら比肩できないような魔法の力で、心と心をつなぐことができる」、そして「(ひとは)結局はそこまで孤独ではないのかもしれないという希望こそ、物語の贈り物なのだ」というあまやかなポジティヴシンキングに行き着く。
ハラリの言うとおり、大きな物語は共同体をまとめるためのメディアだったし、いまもそうだろう。そこには「民主主義」や「資本主義」といったイデオロギーも含まれる。
しかし近代以降、文学における物語は小さく個人的なものになってきた。物語をつくり、それを聴くこと、読むことは、有限な命をもつ人間にとって静かな自己との対話であり、その対話から新たな他者とのつながりを模索するものだった。
ところが、SNS全盛時代のいま、物語は他者にアピールしリアクションを誘発することが究極の価値となり、共感というきずな(きずなは本来「束縛」という意味である)がむしろ他者との対話を妨げている面がある。この傾向はコロナ禍という人類引きこもりの時期に急加速し、AIによるアルゴリズムによって増長されている。
本書の原書刊行は二〇一九年。過去の講座の加筆再録も含むとのこと。この七年ほどで、ひとの関心を引き、ひとを動かす方法は劇的に変化し、それに対する危機感も色濃く醸成されてきたことを実感する。
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