書評

『医心方〈第28巻〉房内編』(泉書房)

  • 2017/12/05
医心方〈第28巻〉房内編 / 丹波 康頼
医心方〈第28巻〉房内編
  • 著者:丹波 康頼
  • 出版社:泉書房
  • 装丁:単行本(367ページ)
  • ISBN:4900138711

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男女の営み説く古代中国健康法

近年、女性雑誌などで「セックスできれいになる」とか「セックスで健康になる」という特集を見かけるが、こうしたセックス健康法はなにもいまに始まったことではない。中国では古代からセックスは保健医学の重要な要素として位置付けられ、あまたの研究がなされてきたのだ。この種の文献は留学生によって日本に持ち帰られ、永観二年(九八四)、鍼博士丹波康頼が中国伝来の医学書を編纂し『医心方』として朝廷に献じたとき、「房内篇」として再編された。『源氏物語』の時代の宮廷人はこの「房内篇」を拳拳服膺し、健康促進のためにセックスに励んだり、あるいは禁忌に触れまいとつとめたにちがいない。

しかし、儒教の影響でセックスがタブー視されると、『医心方』は数奇な運命をたどることになる。十六世紀、名医半井瑞策に下賜された『医心方』は、編者の子孫の丹波氏による返還請求にもかかわらず隠匿されつづけたが、安政七年(一八六〇)に至りようやく幕府に貸し出され、覆刻される。いわゆる安政本と呼ばれるもので、その経緯は鴎外の『渋江抽斎』に詳しい。だが明治維新以後、『医心方』は再び忘却の淵に沈む。金港堂から世に出るには一九〇七年まで待たなければならない。

渋江抽斎 (岩波文庫) / 森 鴎外
渋江抽斎 (岩波文庫)
  • 著者:森 鴎外
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:文庫(389ページ)
  • 発売日:1999-05-17
  • ISBN:4003100581

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ところが、これが出版と同時に発禁となり、かえって伝説を生む。『医心方』そのものが「房内篇」と混同されるに至ったのである。こうした伝説は『医心方全訳精解』が十年前に刊行されてもなお尾を引く。なにしろ、性道徳の乱れを憂え、『医心方』=性愛の書と誤解されることを恐れた訳者自身が「房内篇」を「三十巻の最後に刊行する予定」にしていたのだから。フェミニストの傾向の強い訳者は強い危惧を表明する。「本書は女性を男性と同等の人間として扱わなかった古代中国の、専制君主や貴族のために書かれたものから撰集し、平安朝の天子に献上した文献である。したがって現代社会の倫理や通念とはかけはなれた記述もあり、女性たちのブーイングも撒き起こりそうな説がある」
だが、一読した限り、訳者の恐れは杞憂である。なぜなら、たしかに若い女とだけ性交しろとか、多くの女性を相手しろとか、訳者の非難に値する部分もあるが、全体的に読めば、本書が、セックスを健康の元にするには、まず女性を歓喜させることが必要だという大前提(これが陰陽道だ)に立っていることは明らかで、巷に流布している性の通俗書などよりも、はるかに進歩的だからである。

人はすべて男女の営みをしないでいるのは良くない。性交しないでいると、癰(よう)や〓(お)の病気にかかる。(中略)とはいえ、欲情の赴くまま思う存分に性交すれば、せっかくの寿命を短くしてしまう ※〓は「やまいだれに於」

すなわち、正しい交接法を心得ていれば、男性は衰えることなく、女性は「あらゆる病気を除くことができ、心も精神も楽しくくつろぎ、慰められ、気力も旺盛になります」という相互主義的セックス健康法が基本なのである。

では、肝心な正しい交接法とはなにか?基本は男性が十分に前技を尽くして女性の気分を高めてからにせよというのである。

女性の臍下丹田(下腹部)をもてあそび、女性の唇を求め、子宮を指で深くおしたり、小さく揺すったりして女性の気分を高めよ。女性が男性の陽気を感じてくると、その徴候が女性に現れる。耳はまるで淳酒を飲んだように熱くなり、乳房を握れば乳首が起って乳房は掌にあまるほどふくらみ、首やうなじをしきりに噯動させる。両脚をふるわせて乱れ、美しくたおやかに、そして淫らになまめいて男性の身に迫ってくる

ふーむ、現代のポルノよりもずっと上質な描写ではないか。たしかにこれなら、陰気も陽気も最高となるだろう。で、肝心な交接はというと、挿入はあせらずゆっくりなめらかに、そして浅くときに深く(九浅一深)というのが、原則その一なのである。「そうなってから滑らかにゆっくりと入れて徐々に動かし、出したり入れたりするのを少なくしようとなさいませ。(中略)女性が先に歓喜すれば、男性は衰えないのでございます」

この口調は、黄帝の質問に性のベテランの率女が答えるという『玉房秘決』ゆえのものだが、これ一つを取ってもわかるように、意外に記述は女性中心なのだ。激しいピストン運動よりも、時間をかけたなめらかな挿入という教えは現代性医学にもかなっている。「一方的に急に抜去したり俄に挿入したりといった乱暴な扱いをすれば、とても愛や歓楽を味わうことなどできません」

原則その二は男性は射精をこらえて精液を還流させよという教え、ようするに「接して漏らさず」なのだが(ただし、訳者によれば貝原益軒は『医心方』を読んでいないという)、これとて、男性に対する身勝手セックスの戒めと解釈すれば合理的である。

中国五千年の知恵は現代に通ず。男性ばかりか女性にも積極的に読むことを勧めたい。

【この書評が収録されている書籍】
鹿島茂の書評大全 和物篇 / 鹿島 茂
鹿島茂の書評大全 和物篇
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:毎日新聞社
  • 装丁:単行本(329ページ)
  • 発売日:2007-09-01
  • ISBN:4620318272

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医心方〈第28巻〉房内編 / 丹波 康頼
医心方〈第28巻〉房内編
  • 著者:丹波 康頼
  • 出版社:泉書房
  • 装丁:単行本(367ページ)
  • ISBN:4900138711

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2004年4月18日

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