模範を疑ってすくい出した想い
模範との比較は、人間を苦しめる。模範がそびえ立てば、そうはなれない周辺に否定の言葉が向かう。ああいう風にできた人もいるのに、どうしてあなたはそうなのか、と。この段階で、模範を責め立てることは難しい。その姿勢もまた、否定の材料になるからだ。「私がこの本を書いたのは、ヘレン・ケラーという名の、私個人にとっての悪霊を追い払うためだ」と始まる一冊は、視覚障害の当事者である著者が、ヘレンに向けて一方的な手紙を書き続ける形のノンフィクション作品。「奇跡の人」として模範化され、神格化されてきたが、「とんでもなく大きな犠牲をもたらすのですよ、ヘレン、とりわけあなたのあとに続く何世代もの障害者たちにとっては」。
どうして彼女のようでいられないのか、という声は極めて暴力的で、抑圧ばかりが生まれる。数々の伝記などから「あなたを聖人にしたいという衝動」を嗅ぎ取り、疑いのまなざしをぶつけ、ギャップを埋めていく。それはなにも、真相を暴きたい、という野心ではない。自らの解放のために、ヘレンの足跡を追う。
一方的な手紙は、当然だが、ヘレンには届かない。問いかけた言葉が、自分への問いかけに変化することもある。ヘレンに対する強い憤りは、彼女を模範化させる人たちへの憤りだったのかもしれない。「あなたの人を惹きつける社交的な個性は、あなたを守るための表面的な着色にすぎなかったのだ」「私たちは、私たちがともに思っている以上にもっと似ているのかもしれません」
対話なきところで対話に挑み、その想いをすくい出す。そこに表出した想いとは、一体誰の想いだったのか。今、怒りの感情が積極的に捉えられることは少ない。しかし、怒りが愛へと越境する瞬間を自ら作り出してみせる。ヘレンはなぜ模範としてそびえ立っているのか。怒りをぶつけながら、そこにいないヘレンの感情を受け止めてみせた。