「曲芸」に挑戦した画商たちの列伝
画商という職業はいつごろ、またどのようにして誕生したのだろうか?著者によれば、起源は古代ローマにあり、絵画の値段は最終的には「重さ」で決められたという。
一方、近代的な絵画取引は十五世紀アントウェルペンの教会敷地で画家と商人が開いた市場を嚆矢(こうし)とする。ついで取引の中心はオランダのアムステルダムに移る。アイレンブルフという画家が自分で絵を売るよりも、工房で働くレンブラントの絵を売るほうが儲(もう)かると気づいて画商に転じたのだ。やがて戦乱にあったイタリアの地位が下落すると、英仏の外交官や聖職者が仲介料目当てで王侯貴族の代理人をつとめ、ルネッサンス絵画をパリやロンドンに運ぶ。フランス王妃アンヌ・ドートリッシュの恋人バッキンガム公もその一人だった。
十八世紀に入ると、イギリスに新しいタイプの画商が出現する。一つは無署名の絵でも本物と認定できる鑑識眼を備えた研究者兼務のポンドのような画商。もう一つは「荒れた海ほど、最も多く魚を捕まえられる」として革命や戦争に乗じて投機を図るウィリアム・ブキャナンのような「ならず者」の画商。ブキャナンはフランス革命とナポレオン戦争で美術品が投げ売りされると顧客の欲しがりそうな作品リストを作成し、買い取りエージェントを送り出す。クリスティーズやサザビーズなどの競売会社が成立したこともこうした「ならず者」型の画商が活躍する下地となる。
十九世紀に至って、ようやく現代作家を扱う画商が出現する。
版画商のガンバートはイギリスの新興ブルジョアが同時代の作品を好み、卑近な画題に安心感を抱くことに気づき、「センセーショナル・ピクチャー」という展覧方式を考え出す。すなわち、馬市、競馬場、鉄道駅といった空間に群衆たちがひしめく巨大な絵画を現代画家に描かせ、入場料を取って公開した後、複製版画を販売し、最後に作品そのものを売却するのである。「それは販売のために委託された新作という果実一粒を、三回美味(おい)しく味わう機会を画商にもたらすものだった」
この経験から現代作家の絵画も売れると気づいたガンバートはミレイ、ロセッティ、ハントなどラファエル前派の画家たちに目をつけ、大衆が好むような画題を選ばせる。つまり、画商主導の絵画が生まれたのである。
一方、サロン(官展)が支配していたフランスでは画商は成立しにくかったが、そのことが逆に新しいタイプの画商の誕生を促す。たとえば、サロンから締め出された印象派の画家たちに寄り添いながらなんとか彼らの絵画を売れるように努めた画商デュラン=リュエル。あるいはデュラン=リュエルがガラクタ扱いしたセザンヌ、ゴッホなどの後期印象派の先見性を見込んで大量に作品を買い取りながら、これを客に売りたがらなかった偏屈画商ヴォラール。さらにはヴォラールが理解しなかったキュビスムの革命性を見抜いてピカソやブラックと専属契約を結んだ理論派の画商カーンワイラー。彼らは商売上の成功を精神的な勝利に変えたと見ることも可能だが、著者は「そのような高潔さは、もちろんそれ自体で、きわめて魅力的な商売上の戦略ともなりうるのだ」と冷徹に分析している。
金儲けと画家支援という両立不可能な曲芸に、未来の報酬(名声と金銭)という幻想を持つことで挑戦しつづけた画商たちの興味尽きない列伝である。