書評

『才女の運命 男たちの名声の陰で』(フィルムアート社)

  • 2020/04/20
才女の運命 男たちの名声の陰で / インゲ・シュテファン
才女の運命 男たちの名声の陰で
  • 著者:インゲ・シュテファン
  • 翻訳:松永 美穂
  • 出版社:フィルムアート社
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(280ページ)
  • 発売日:2020-03-19
  • ISBN-10:4845919303
  • ISBN-13:978-4845919307
内容紹介:
トルストイ、シューマン、ロダン、アインシュタイン、フィッツジェラルド……歴史に名を残した男たちの傍らで、才能に溢れた女性たちが過ごした波乱の生涯、苦悩の日々。かつて女性は就く… もっと読む
トルストイ、シューマン、ロダン、アインシュタイン、フィッツジェラルド……

歴史に名を残した男たちの傍らで、才能に溢れた女性たちが過ごした波乱の生涯、苦悩の日々。



かつて女性は就くことのできる職業も限られ、チャンスを与えられず、正当な評価を受けることもできない……そのような時代が長らく続きました。「偉人」と呼ばれ、後世に名を残した多くの人々が男性であることからも、それを伺うことは容易です。そしてそのような風潮は現代においても、全てが覆されたとは言えません。

本書で紡がれるのは歴史に名を残す「偉人」のパートナーとして翻弄されながら、それでもなお自らの創造性を発揮しようとした女性たちの物語です。

彼女たちはそれぞれの分野で特異な才能の持ち主でしたが、家庭に入ることで夫や子どもの身の回りの世話に忙殺され、社会的な規範に押し込められ、あるいはパートナーの身勝手さに振り回されることで、自身の夢から閉ざされることを余儀なくされます。

ジェンダーの問題が社会全体の課題として強く認識されるようになった今日でも、同じような状況はあらゆるところに存在しているはずです。25年ぶりの復刊となった本書は、そのような状況に屈することをよしとしなかった気高き女性たちの孤独な闘いと魂の記録を通じ、人がその性差に束縛されず個人として生きることの価値、そしてそれを守ることの義務を問い直す一冊です。


【本書で取り上げる“才女”たち】
◎レフ・トルストイの妻 ソフィア(文学者)
◎カール・マルクスの妻 イェニー(政治活動家)
◎ロベルト・シューマンの妻 クララ(作曲家・演奏家)
◎オーギュスト・ロダンの愛人、ポール・クローデルの姉 カミーユ(彫刻家)
◎アルベルト・アインシュタインの最初の妻 ミレヴァ(物理学者)
◎ライナー・マリア・リルケの妻 クララ(彫刻家)
◎ロヴィス・コリントの妻 シャルロッテ(画家)
◎オットー・ヒンツェの妻 ヘートヴィヒ(歴史学者)
◎カール・バルトの妻 シャルロッテ(神学者)
◎スコット・フィッツジェラルドの妻 ゼルダ(小説家)


「『ミューズ』の美名のもとに、男性から社会的・創造的搾取を受けてきた女性たちを呪縛から解き放つ名著、待望の復刊!」
鴻巣友季子さん推薦!


有名な男性の陰でずっと生きてこられて、どんなお気持ちですか。エレーヌ・ド・コーニングはあるときそんなふうに尋ねられた。一九三三年から一九八六年に癌で世を去るまでの五十年間、戦後アメリカでもっとも重要な画家の一人となったヴィルヘルム・ド・コーニングとの間に別離と再会をくりかえし、波乱に富んだ結婚生活を送ってきた女性画家は、その質問に対してそっけなくこう答えた。

「わたしは彼の陰にいるのではなく、彼の光のなかに立っているのです。」

有名な男性とともに生きてきた多くの女性たちは、エレーヌ・ド・コーニングと同じように考えてきたのだろう。彼女たちは夫の名声が発する光を浴び、その光が自分の上にもふりかかるのを楽しんできたのかもしれない。

この本で取り上げた女性たちも、夫(や愛人)の名声をいくらかは楽しんだだろうし、なかには有名だったからこそその人を夫に選んだ、という女性もいる。しかし、彼女たちはすべて、多かれ少なかれ、最終的には光ではなく、夫の陰に生きなければならないという辛い体験をした。光があるところには必然的に陰が生じるものだし、この陰は結局妻たちの上に投げかけられる。たいていは彼女たちがまだ生きているうちに、そうでなくても死んでから、男性の天才にばかり興味を示し、女性などはさっさと忘れてしまう後世の人々によって。

(中略)

才能ある女性はどこにでもいるものだ。だからこそ、この本が日本でも読者を見いだしてくれるように願う。

(「日本語版への前書き」より一部抜粋)

搾取される女性の歩みと抵抗、克明に

本書によれば、「君の仕事はこれからはたった一つ、ぼくを幸せにしてくれるということだけなのです。わかりますかアルマ、ぼくの言っている意味が?」と、グスタフ・マーラーは同業者のアルマ・シントラーに手紙を書き、結婚後の仕事を禁じた。前世紀初頭のことだ。しかし現在も、結婚前にこのような“通達”を男性から受ける女性はいるはずだ。こんな露骨な文面ではない。言葉に出さないかもしれない。見えにくい圧力ゆえにむしろ厄介である。

トルストイ、マルクス、シューマン、ロダン、アインシュタイン……偉大な芸術家、学者、運動家の陰で、「ミューズ」の美名のもとに創造的、知的、社会的搾取を受けてきた女性たちの懸命な歩みと抵抗、そして多くは敗北を、本書は克明にあぶりだす。とくにこの二語に注意して読んでいただきたい。「ファム・ファタール(運命の女)」「吸血鬼」。

ファム・ファタールは男を惑わし滅ぼす魔性の存在として、文学作品を彩ってきた。サロメ、シェイクスピアのダークレディ、ロリータ……。昨年、「宿命の女」をテーマにしたモローの美術展で「エウロペの誘拐」を見たとき、ファム・ファタールとは、男性の都合でつくられた「幻想」ではと感じた。ギリシャ神話で王女に恋をした全能神が変身して彼女を拉致するという画題だが、恍惚の表情をした王女が「誘う女」として描かれている。女の方が誘惑し、男は抗しがたい「魔力」に落ちたえじきというわけだ。

父権社会で男性たちが自分の理解を超えた女性の力に出会ったとき、彼女らに貼ったレッテルは、聖母のごとき「聖性」と狂おしい「魔性」だ。その役割にあてはめれば、女性のもつリソースを利用しやすいからだ。

トルストイの妻となるソフィアは人気のピアニストで、小説も書いていた。結婚後は、夫の原稿を清書し校正するばかりか、編集者の役割をも担った。その間に十三人の子を産み、良き母業を求められて苦しんだ。夫は禁欲を謳(うた)うわりに、医者が止めても性欲を抑制できず、「それをもっぱら妻のせいにしていた」。いわく、あらゆる女性は「性愛しかめざしていない」「それにおぼれて」いると。自分はその性欲に囚われた被害者だと言わんばかりだ。大方、これが文学における「ファム・ファタール」の実情でないか。

ファム・ファタール“ごっこ”とその妄想が、激烈な毒性を発してしまった一例が、ゼルダ&スコット・フィッツジェラルドの夫婦関係だ。出会ったころの十八歳のゼルダは、率先してファム・ファタールを演じ、スコットは彼の小説から抜けだしてきたような女と電撃的に恋に落ちた。夫は「魔性」と同時に「詩神」の役割をゼルダに求め、ゼルダの方は「自分をまったくの無」にして芸術家に奉仕することを楽しんだ。ところが、やがてゼルダは自ら小説を書きだし、自分の日記の文章を無断で転用したスコットの『美しく呪われた人たち』を「盗作」と評す。夫は夫で、ゼルダの小説は「まるでぼくの小説のコピーです」と批判し、「ぼくたちの体験はすべてぼくのものだ」と宣言して、「米国史に残る」作家となっていくのである。

「ゼルダこそが吸血鬼だ」というスコットの言葉に留意したい。シュテファンは「吸血」という語を繰り返し使う。彫刻家のカミーユ・クローデルは、彼女からアイデアを盗もうとするロダンの「吸血鬼のような手から逃げ出し」、自分を守ろうとしたという。そもそも男性の「天才」は多くの場合、「他者からの吸血鬼的な搾取を前提とするもの」だと。

“同業”の夫婦の例はほかにもある。アインシュタインの妻ミレヴァ・マリチは、幼少時から数学にずば抜けた才能を示し、スイス最高の大学に進みながら、妊娠、結婚を機に、夫の助手となる。「体系づけて仕事のできる人間ではなかった」夫に代わって数学の問題を解き、彼のアイデアを数学的に転換したというが、ふたりの共同研究は夫の単著となった。クララ・シューマンは夫のローベルトから、演奏家としては称賛されつつ、作曲の仕事は決してさせてもらえなかった。演奏とは「解釈」だが、作曲とは「創作」であり、上位におかれるものだからだ。クララが「自分のなかに重心を持たないあやつり人形」と化したのは、当時支配的だった女性像と、父親の教育の影響もあるという。

夫婦のどちらに救われる価値があるか?と、スコットは問うた。どちらが血を吸い、どちらが与えることになるのか? T・S・エリオットの「自分より価値の高いものに自分を明け渡すこと。芸術家の進歩とは、絶え間なき自己犠牲である」という一文を思いだす。創造的、知的活動における精神的吸血(spiritual vampirism)という観点から考えたとき、エリオット夫妻において、真の吸血鬼はファム・ファタールで知られた妻ではなく、エリオットの方だった。ファム・ファタールは女性のリソースを活用するための隠れ蓑にすぎないのだ。

本書の今世紀版ともいえるケイト・ザンブレノの小説『ヒロインズ』との併読をお勧めする。
才女の運命 男たちの名声の陰で / インゲ・シュテファン
才女の運命 男たちの名声の陰で
  • 著者:インゲ・シュテファン
  • 翻訳:松永 美穂
  • 出版社:フィルムアート社
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(280ページ)
  • 発売日:2020-03-19
  • ISBN-10:4845919303
  • ISBN-13:978-4845919307
内容紹介:
トルストイ、シューマン、ロダン、アインシュタイン、フィッツジェラルド……歴史に名を残した男たちの傍らで、才能に溢れた女性たちが過ごした波乱の生涯、苦悩の日々。かつて女性は就く… もっと読む
トルストイ、シューマン、ロダン、アインシュタイン、フィッツジェラルド……

歴史に名を残した男たちの傍らで、才能に溢れた女性たちが過ごした波乱の生涯、苦悩の日々。



かつて女性は就くことのできる職業も限られ、チャンスを与えられず、正当な評価を受けることもできない……そのような時代が長らく続きました。「偉人」と呼ばれ、後世に名を残した多くの人々が男性であることからも、それを伺うことは容易です。そしてそのような風潮は現代においても、全てが覆されたとは言えません。

本書で紡がれるのは歴史に名を残す「偉人」のパートナーとして翻弄されながら、それでもなお自らの創造性を発揮しようとした女性たちの物語です。

彼女たちはそれぞれの分野で特異な才能の持ち主でしたが、家庭に入ることで夫や子どもの身の回りの世話に忙殺され、社会的な規範に押し込められ、あるいはパートナーの身勝手さに振り回されることで、自身の夢から閉ざされることを余儀なくされます。

ジェンダーの問題が社会全体の課題として強く認識されるようになった今日でも、同じような状況はあらゆるところに存在しているはずです。25年ぶりの復刊となった本書は、そのような状況に屈することをよしとしなかった気高き女性たちの孤独な闘いと魂の記録を通じ、人がその性差に束縛されず個人として生きることの価値、そしてそれを守ることの義務を問い直す一冊です。


【本書で取り上げる“才女”たち】
◎レフ・トルストイの妻 ソフィア(文学者)
◎カール・マルクスの妻 イェニー(政治活動家)
◎ロベルト・シューマンの妻 クララ(作曲家・演奏家)
◎オーギュスト・ロダンの愛人、ポール・クローデルの姉 カミーユ(彫刻家)
◎アルベルト・アインシュタインの最初の妻 ミレヴァ(物理学者)
◎ライナー・マリア・リルケの妻 クララ(彫刻家)
◎ロヴィス・コリントの妻 シャルロッテ(画家)
◎オットー・ヒンツェの妻 ヘートヴィヒ(歴史学者)
◎カール・バルトの妻 シャルロッテ(神学者)
◎スコット・フィッツジェラルドの妻 ゼルダ(小説家)


「『ミューズ』の美名のもとに、男性から社会的・創造的搾取を受けてきた女性たちを呪縛から解き放つ名著、待望の復刊!」
鴻巣友季子さん推薦!


有名な男性の陰でずっと生きてこられて、どんなお気持ちですか。エレーヌ・ド・コーニングはあるときそんなふうに尋ねられた。一九三三年から一九八六年に癌で世を去るまでの五十年間、戦後アメリカでもっとも重要な画家の一人となったヴィルヘルム・ド・コーニングとの間に別離と再会をくりかえし、波乱に富んだ結婚生活を送ってきた女性画家は、その質問に対してそっけなくこう答えた。

「わたしは彼の陰にいるのではなく、彼の光のなかに立っているのです。」

有名な男性とともに生きてきた多くの女性たちは、エレーヌ・ド・コーニングと同じように考えてきたのだろう。彼女たちは夫の名声が発する光を浴び、その光が自分の上にもふりかかるのを楽しんできたのかもしれない。

この本で取り上げた女性たちも、夫(や愛人)の名声をいくらかは楽しんだだろうし、なかには有名だったからこそその人を夫に選んだ、という女性もいる。しかし、彼女たちはすべて、多かれ少なかれ、最終的には光ではなく、夫の陰に生きなければならないという辛い体験をした。光があるところには必然的に陰が生じるものだし、この陰は結局妻たちの上に投げかけられる。たいていは彼女たちがまだ生きているうちに、そうでなくても死んでから、男性の天才にばかり興味を示し、女性などはさっさと忘れてしまう後世の人々によって。

(中略)

才能ある女性はどこにでもいるものだ。だからこそ、この本が日本でも読者を見いだしてくれるように願う。

(「日本語版への前書き」より一部抜粋)

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2020年4月4日

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