書評
『ビンゲンのヒルデガルトの世界』(青土社)
女性霊能者や幻視者にはなぜか四十代、五十代の中年女性が多い。その場合、中年になって突如霊能力に目覚めたというよりも、若いときにはなんらかの理由で自らの能力を公にできなかったケースがほとんどである。
今日、ビンゲンのヒルデガルトと呼ばれる、十二世紀のドイツに生きた最も有名な女性幻視者もその典型である。彼女は四十二歳になったとき、幻視したヴィジョンを公開し始めた。それというのも七歳のときに修道院に入って以来人生の大半を病床で過ごしたからである。それが四十二歳になって「汝の見るものを言え、また書け!」という天上の声を聞いたのだ。そのヴィジョンは、絵のような明晰さをともなっていた。ヒルデガルトはおのれを空しくして「みずからをヴィジョンを写す遠視装置、(天上の)声に共鳴する楽器」と化し、ひたすら「天上のヴィジョン」の記述につとめた。といっても、彼女の場合、当時の公用語であるラテン語を身につけていない「無学な」女性だったから、彼女の言葉をラテン語に翻訳する審判者(コントローラー)の修道士が必要で、この修道士が記述を行ったのである。ヴィジョンには対応する挿絵が添えられた。そこから『スキヴィアス(神の道を知れ)』という、類いまれな幻視の書が生まれた。本書は『スキヴィアス』を紹介しつつ、当時の社会状況と関連させながら、聖女ヒルデガルトの生涯をたどった一冊である。
と、こう書くと、著者をご存じの読者は、奇異な感に打たれるかもしれない。なぜなら種村季弘といえば、およそ聖女とは無縁の、詐欺師、香具師(やし)、偽作家など社会のアウトローの発掘に情熱を傾けてきた著述家だからである。その著者がなぜ聖女ヒルデガルトを、という疑問がわいてくるのは当然である。だが心配はご無用。たとえ聖女をあつかっても、そこはさすが種村季弘、例のどんでん返し的な筆法で、聖女ヒルデガルトの生涯を感動的に描きながら、同時に魔法の眼鏡のように時代の諸相を反転させて見せてくれる。
筆者が一貫して強調するのは、無学な女性にして病者という弱者ヒルデガルトが、ときの権力者である男性の教会権力者と戦うその姿勢のしたたかさ、戦略の巧みさである。
まず、ヴィジョンそのものが甚だ戦略的である。というのも「私は見た――なにか大きな、鉄色の山のようなものを見た。そのうえに栄光の輝きに目がくらむほどまばゆいものが君臨していた」で始まるヴィジョンの中にあらわれた「光り輝くもの」の声を借りてヒルデガルトは呵責ない教権批判を展開するが、実は、この彼女の批判、どうあっても反論できない仕組みになっている。なぜなら彼女は「個性ある人間として発言しているのではなく、空の器として天上の裁きのことばをここに伝えているだけなのだから」。
しかし、当時、教会批判はすべて異端の烙印をおされる可能性があったので、まず、ヒルデガルトの属する修道院長が逃げ腰になる。だが神の声に命じられたヒルデガルトは屈しない。実力者クレルヴォーのベルナールに援助を要請する。おかげで公会議で『スキヴィアス』は承認され、教皇みずからの手による許可状を授けられる。こうしてヴィジョンはローマ教皇公認のものとなり、ヒルデガルトは一挙に有名人となる。しかしそうなると、おもしろくないのが修道院長で、様々な形でいやがらせに出る。ヒルデガルトはショックでそのたびに病の床に伏せるが、実は、この病こそが彼女の力なのだ。というのも、病の床にあるときに限って天上の声が鳴り響き、彼女に戦う意志を授けるからだ。こうしてヒルデガルトは病軀(びょうく)を抱えながら、世のあらゆる権力に戦いを挑んで常に勝利する。それもそのはず、ヒルデガルトとは「戦いの庭」という意味なのだ。
だが著者をひきつけたのは、こうした宗教的戦いの果敢さよりもむしろヴィジョンの導きによってヒルデガルトが手掛けた学問の多様さとその研究態度の特異さだろう。すなわち、今日でいうところの哲学、天文学、建築学、宝石学、医学、薬学、音楽、魚類学、植物学、精神分析学、言語学、セクソロジーなど、「無学」なはずの彼女が老年に至って手掛けなかった学問はほとんどないほどで、しかも、それぞれの分野で、彼女は聖書の教えを一歩も逸脱することなく、しかも時代を超越したリベラルで実証的な態度を貫くという、同時代のだれも成しえなかったアクロバット的な奇跡を成しとげているのである。ヒルデガルトの創設したルーペルツベルクの女子修道院は、「花々は馥郁と香り、処女たちの清らかな歌声に満たされて、暗鬱なゴシック的禁欲精神の支配することのない、中世には稀に見る、のびやかな明るい空間だった」と、いうが、けだし当然だろう。
弱いものほど強い。まさに種村流魔法の眼鏡の面目躍如である。
【この書評が収録されている書籍】
今日、ビンゲンのヒルデガルトと呼ばれる、十二世紀のドイツに生きた最も有名な女性幻視者もその典型である。彼女は四十二歳になったとき、幻視したヴィジョンを公開し始めた。それというのも七歳のときに修道院に入って以来人生の大半を病床で過ごしたからである。それが四十二歳になって「汝の見るものを言え、また書け!」という天上の声を聞いたのだ。そのヴィジョンは、絵のような明晰さをともなっていた。ヒルデガルトはおのれを空しくして「みずからをヴィジョンを写す遠視装置、(天上の)声に共鳴する楽器」と化し、ひたすら「天上のヴィジョン」の記述につとめた。といっても、彼女の場合、当時の公用語であるラテン語を身につけていない「無学な」女性だったから、彼女の言葉をラテン語に翻訳する審判者(コントローラー)の修道士が必要で、この修道士が記述を行ったのである。ヴィジョンには対応する挿絵が添えられた。そこから『スキヴィアス(神の道を知れ)』という、類いまれな幻視の書が生まれた。本書は『スキヴィアス』を紹介しつつ、当時の社会状況と関連させながら、聖女ヒルデガルトの生涯をたどった一冊である。
と、こう書くと、著者をご存じの読者は、奇異な感に打たれるかもしれない。なぜなら種村季弘といえば、およそ聖女とは無縁の、詐欺師、香具師(やし)、偽作家など社会のアウトローの発掘に情熱を傾けてきた著述家だからである。その著者がなぜ聖女ヒルデガルトを、という疑問がわいてくるのは当然である。だが心配はご無用。たとえ聖女をあつかっても、そこはさすが種村季弘、例のどんでん返し的な筆法で、聖女ヒルデガルトの生涯を感動的に描きながら、同時に魔法の眼鏡のように時代の諸相を反転させて見せてくれる。
筆者が一貫して強調するのは、無学な女性にして病者という弱者ヒルデガルトが、ときの権力者である男性の教会権力者と戦うその姿勢のしたたかさ、戦略の巧みさである。
まず、ヴィジョンそのものが甚だ戦略的である。というのも「私は見た――なにか大きな、鉄色の山のようなものを見た。そのうえに栄光の輝きに目がくらむほどまばゆいものが君臨していた」で始まるヴィジョンの中にあらわれた「光り輝くもの」の声を借りてヒルデガルトは呵責ない教権批判を展開するが、実は、この彼女の批判、どうあっても反論できない仕組みになっている。なぜなら彼女は「個性ある人間として発言しているのではなく、空の器として天上の裁きのことばをここに伝えているだけなのだから」。
しかし、当時、教会批判はすべて異端の烙印をおされる可能性があったので、まず、ヒルデガルトの属する修道院長が逃げ腰になる。だが神の声に命じられたヒルデガルトは屈しない。実力者クレルヴォーのベルナールに援助を要請する。おかげで公会議で『スキヴィアス』は承認され、教皇みずからの手による許可状を授けられる。こうしてヴィジョンはローマ教皇公認のものとなり、ヒルデガルトは一挙に有名人となる。しかしそうなると、おもしろくないのが修道院長で、様々な形でいやがらせに出る。ヒルデガルトはショックでそのたびに病の床に伏せるが、実は、この病こそが彼女の力なのだ。というのも、病の床にあるときに限って天上の声が鳴り響き、彼女に戦う意志を授けるからだ。こうしてヒルデガルトは病軀(びょうく)を抱えながら、世のあらゆる権力に戦いを挑んで常に勝利する。それもそのはず、ヒルデガルトとは「戦いの庭」という意味なのだ。
だが著者をひきつけたのは、こうした宗教的戦いの果敢さよりもむしろヴィジョンの導きによってヒルデガルトが手掛けた学問の多様さとその研究態度の特異さだろう。すなわち、今日でいうところの哲学、天文学、建築学、宝石学、医学、薬学、音楽、魚類学、植物学、精神分析学、言語学、セクソロジーなど、「無学」なはずの彼女が老年に至って手掛けなかった学問はほとんどないほどで、しかも、それぞれの分野で、彼女は聖書の教えを一歩も逸脱することなく、しかも時代を超越したリベラルで実証的な態度を貫くという、同時代のだれも成しえなかったアクロバット的な奇跡を成しとげているのである。ヒルデガルトの創設したルーペルツベルクの女子修道院は、「花々は馥郁と香り、処女たちの清らかな歌声に満たされて、暗鬱なゴシック的禁欲精神の支配することのない、中世には稀に見る、のびやかな明るい空間だった」と、いうが、けだし当然だろう。
弱いものほど強い。まさに種村流魔法の眼鏡の面目躍如である。
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