宗教への無関心、打開の扉を開く
徹底して現場に赴いて、人々の声を聴く。この著者の方法論が、これまで科学や医療などを対象にしてきたことから考えれば、今回は驚きを禁じ得ない方向に向かった。その向かう先は、日本におけるキリスト者である。沖縄から北海道まで、丹念に現地を訪れて、そこで生活するキリスト教の「信者」へインタヴューを重ねる。名前が活字となって登場するだけで凡そ百二十人。その背後には恐らく十倍に近い聴き取りの事例があったのではないか。気の遠くなるようなその作業の結果が、一千ページを超える大著となった。キリスト教の信者と言っても、聖職者、つまりカトリック、ギリシャ正教会、聖公会における司祭やプロテスタントの牧師、あるいはカトリックにおける修道女などが一方にあって、他方に一般の信者(レイ、英語で<lay>と表現される)がある。さらに右に挙げた既成の組織のほかに、民族に関わる独立教会や内村派の無教会コミュニティ、さらに救世軍などで、活動する人々もある。読後、大まかにその内訳を数字で纏めてみると、プロテスタント諸派のレイが約三十人、聖職者が約二十人、カトリックのレイが約二十人、聖職者が約十人で、全体のほぼ三分の二を占める。地域を移っての取材なので、ある地域で強力な組織があると、その組織の関係者が重なって取材対象になる傾向はあるようだ。また、韓国、ブラジル、あるいは返還前の小笠原の場合も含めて、海外からの在住者やその子孫たちも当然対象となり得る。
一人一人の証言内容は、実に千差万別で、極めて率直、女性と生まれながら、先生から「お嬢さん」と呼ばれて、「クソガキと言って」くれた方がまし、と叫ぶ人、じぶんは妻を殺した、と言う人、あるいは、洗礼を受け、熱心な信仰を持ったことがあって、しかし、「今はもう教会にはいっていません」とはっきり言明する人、恋敵を襲って全治二カ月の傷を負わせた人、そういう人たちが、聖書とどう向き合っているのか、あるいは、いたのか。百二十の真実の言葉が並んでいる。如何にも「信者然」とした取り澄ました発言などは一つもない、と言ってよい。そうした言葉を相手から引き出す著者の力量には、更(あらた)めて頭が下がる。
現在日本社会におけるキリスト教の位置は、信者数が総人口の二パーセントに遥かに足りないという数字が示すとおりである。しかも、本書にも随所に現れるが、信者数の減少で閉めなければならない教会は増え続け、また聖職者になる日本人の数も減っている。カトリックの教会でも、海外からの助っ人神父のお蔭で、それも、幾つかの教会を掛け持ちで、漸く維持できている教会も多い。その意味では、日本社会におけるキリスト者の影響力は、大きくはない。
しかし、世界を見渡せば、キリスト教に限らず、宗教が良くも悪くも、社会の原動力であり続けているのに、宗派に限らず、信仰のあり方自体への理解が、現代日本社会のなかでは、脆弱である。あるいは、そうした面に基本的に無関心であることは確かで、受洗した「信者」ではないが、育った環境はキリスト教に無縁ではなかった著者が、その経験を活かしながら、「信じる」ことの意味を訪ね歩くことで、宗教への無関心への一つの打開の扉を開いたこの作品は、大きな意味を持つだろう。