スコープス裁判から解き明かす対立
ややセンセーショナルな姿勢が目立つが、読んで中々面白い本である。出発点は、ダーウィンの進化論と、キリスト教の、というよりは本来ユダヤ教の中心的教義である「神による世界創造」との軋轢(あつれき)である。通常スコープス裁判と呼ばれ、高校の教師スコープスがダーウィニズムを教室で教えたことで、告発され、裁判にかかった事件が、アメリカにおけるこの問題の象徴のように扱われてきた。一九二五年、テネシー州デイトンという田舎町の出来事だった。本書では、この事件は、そもそも町の知名度を上げようとする有力者たちが、スコープスという新米教師を利用して一芝居打ったものだ、と解説されているが、もともとイギリスでダーウィンが『種の起源』を発表した時に、国教会の大司教だったサミュエル・ウィルバーフォースらが、宗教の立場から強力な反対の論陣を張ったときから、進化論と創造説を戴(いただ)くキリスト教との摩擦は、必然だったと言ってよい。ダーウィン自身『種の起源』第四章で「各々の種が独立に創造されたとする見解によって」は、説明のできない世界として自然選択を説いている。本書では、第二章で、この事件が詳細に扱われるが、描写は細密を極め、恰(あたか)も実見に基づくドキュメントのような印象を与える。その筆致には感服する。ただ八十三ページ「教皇の陥落」という見出しは内容と照らしていささか不可解、と記しておく。
科学的な知識と、旧・新約聖書に記された字句とが、しばしば抵触するとされるが、ここでの論点は、本書で詳述されているようにきわめて本質的な性格のもので、妥協点が見出し難い。それゆえ、特にキリスト教原理主義の強いアメリカ南西部諸州では、今日まで、様々な形で尾を引いてきた。本書第三章、第四章では、その状況が浮き彫りにされる。終章で有名な生物学者スティーヴン・グールドの<NOMA>、つまり「相互に重ならない領域での権威」を認めよう、という一種の妥協案的な提案にも言及されるが、創造説の変形として生まれた<ID>即ち「インテリジェント・デザイン」論は、この宇宙の構成は、何らかの知的デザイナーの存在なしには理解できないことを示唆する、として、間接的に創造論を支えることになる。第四章では、この主題が丹念に追求されている。実際、純粋に宇宙物理学の領域で、ロバート・ディッケに代表される「人間原理」という理論があって、表面的には一見<ID>に重なると思われる主張もあり、事態は複雑だ。
本書は、現代社会における「宗教的」な現象、例えばアルゼンチンにおける「マラドーナ教会」などにも言及しながら、一体我々は、宗教という、日本人にとって、聊(いささ)か深入りし難い世界を、今後どう考えていけばよいのか、という問題を読者に突きつける。そういえば、我々は家康が神になったとして東照宮を造り、誰もが手を合わせるのだから、マラドーナ教会もさして不思議ではないかもしれない。一言付言すると、ローマ教会は一九九六年当時の教皇ヨハネ・パウロⅡ世の「教書」のなかで、はっきりと進化論の基礎を承認し、ただし、生物学的人間に神は「魂」を与えた、とする見解を披露している。