書評
『セラピスト』(新潮社)
心理療法への問い、自分巻き込み取材
競輪選手、絶対音感、青いバラ、生命倫理、東大応援団、そして星新一。最相葉月がこれまで集中的に取材してきた対象だ。ノンフィクション作家としての最相の、七変化のようなテーマの交替にいつも驚かされる。そして惹(ひ)かれる。その眼(め)のつけどころに、体を張った取材の集中力に。このたびは、心理療法の一つとしての「箱庭療法」と「風景構成法」。焦点を当てられる人物は河合隼雄と中井久夫である。
みずからも心療内科を受診した経験をもつ最相ははじめ、カウンセリングに、漠としたいかがわしさを感じていた。「三分診療」にしかも値段はばらばら。カウンセラーを転々と替える知人もいる。身体接触をめぐる事件もあった。呼称や資格は乱立しているのに、犯罪や事故、災害が起こればすぐ「心のケア」の大合唱が起こる……。
そして取材は開始された。戦後のカウンセリング導入期の関係者の話を聴き、そのキーパーソンとおぼしき米国人と手紙のやりとりをし、やがて一念発起、臨床心理学の大学院に通い、専門の研修機関でも学ぶ。そしてついに「精神医学界のドクターズ・ドクター」とよばれる中井久夫を訪れ、絵画療法の被験者になる。
ふだんの取材とは異なって、まさに自分を問題に巻き込むなかで、クライエントの言葉をオウム返しにするだけだという心理療法への表層的な理解や、「受容」「共感」という概念の教条的なしこり、さらにはその背景への問いかけが、形を変えていっそう深まってゆく。河合隼雄の「箱庭療法」でもそうだが、クライエントが描いた風景画や箱庭をともに鑑賞する、そんなことでなぜ治るのか。いやそもそも治るとは?
そんな問いをくり返すなかで、河合と中井が強調した「解釈しないこと」「言葉によって意味を固定しないこと」のもつ意味について考えを重ねる。「治す」という観念では掬(すく)いようのない心の不調の深さと、それに(河合や中井のように)時間をかけて向きあうことが困難になっている精神医療の現場に、思いを向けてゆくのだ。さらに、対人恐怖から引きこもりへ、境界例から解離性障害へ、発達障害へと、心の不調が時代に沿って変化してきたその理由にも。
中井は、立場を転じてみずから最相の風景構成法の被験者になることで、クライエントでありながら取材者でもあるという最相の二重性に、大きな膨らみを与えた。
そう、傍らでいっしょに考える……。心の不調にかぎらず、就労環境から原発まで、専門家にまかせず当事者として専門家とともに考える、そんな市民のこれからの課題にまっさきに取り組んだ仕事として、この本はある。
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