「事実」と「誤り」の間を読み込み悩み抜く仕事
何年も前、自分の原稿の中にあったタレントのRIKACOの表記がRICAKOになっていることを校正者が指摘してくれた。日頃、彼女のスペルについて、そこまで考えていない。先日、「代々木公園の端っこには、代々木ポニー公園がある」と書いたら、校正者から疑問が出た。代々木公園は都立、代々木ポニー公園は区立の施設、この表現だと同じ敷地内で運営されているように読めてしまうとのことだった。
毎日のように校正者に向かってお辞儀をしたくなるのだが、校正者と直接向き合うことはほとんどない。本や雑誌が出版される前のゲラ(校正刷り)を読み、言葉の誤りや事実関係の確認をしてくれるのだが、すべてはそのゲラを通してのやり取りとなる。
校正者としての想い、心得、悩みなどを綴(つづ)った一冊を読み、ゲラに文字を書き入れるまでの葛藤を知る。「校正とははたしてすべてを『事実』に即して正すべき仕事なのでしょうか」とある。文芸とサブカルとジャーナリズムと理系では、それぞれ「事実」が異なる。たとえば、「すっかり心臓は止まっていたが、彼は元気満々に歩いた」という文章があったとして、それをいかに「事実」とするかは難しい。
そこにある言葉を見極めるためには事実以外の尺度も必要で、紙を通じたコミュニケーションを繰り返していく。一度印刷されてしまえば、もう元には戻せない。なぜこの誤植を見逃したのかと、うろたえたことのない校正者・編集者・書き手は誰一人としていない。「完璧な仕事をすることなど不可能だと知りながら、次こそはと心に誓い新たなゲラに向かう」。
同じ気持ちだ。熱量が注ぎ込まれたゲラを眺めて、精一杯の熱量で返すのが好きなのだ。