辛く苦しい時代に花開いた庶民文化
東京・浅草に「駒形どぜう」という名店がある。創業は11代将軍・徳川家斉の1801年というから200年以上も暖簾を守ってきているわけだ。ぼくが通う東大・本郷キャンパス(もと加賀藩の上屋敷)周辺で30年以上商売をしている飲食店はそう多くない。守成こそは難しい。この「駒形どぜう」店主、六代目越後屋助七さんは昭和の終わりから年に6回、同店の地下1階で「江戸文化道場」を催してきた。江戸文化を伝える芸人や職人や研究者を講師に選び、芸能ならば実演を、工芸ならば実物を披露して回を重ねた。200回を迎えたのを記念し、とくに印象深かった話を厳選してまとめたのが本書である。
今ブームになっている葛飾北斎は、若き日に七色唐辛子の売り子をしていたという。江戸の物売りといえば、竿竹屋や金魚屋が有名(ぼくも何度も売り声を聞いた)だが、自分の背丈より大きな張り子の唐辛子を斜めに背負い、赤い衣装を着た唐辛子売りがいたそうだ。あまりの奇抜さに実在を疑いたくなるが、「江戸文化道場」第1回の講師が大道芸人の坂野比呂志という方で、この方はみごとに「やげん堀唐辛子売り」の口上を再現する。坂野さんの芸により、江戸が生き生きと甦る。
世知辛い現代を嫌って江戸を妙に称揚する、という向きがないではない。それは明らかに正しくない。貧富の差、不衛生、医学の未熟、過干渉な政治。江戸の暮らしは今よりも確実に辛く苦しかった。けれども、江戸っ子は庶民文化を生み出しながら力強く生きていた。それも間違いのない事実である。
私たちの先輩はおっちょこちょいだがエネルギッシュだった。そして何より、粋を重んじた。本書を開いて、そんな彼らに会いに行くのも一興だろう。