書評
『バンリュー フランス団地映画の軌跡』(アプレミディ)
みな「落下」している。問題は「着地」
いま私たちは落下している、落下している……まだ大丈夫、まだ大丈夫、地面にはついていないと思いながら。だが重力に逆らって浮上または停止しないかぎり、いつか激突の時がやってくる。「私たち」はどこかの国かもしれない。この地球、あるいは人類全体かもしれない。
この「まだ大丈夫」という言葉は、フランス映画「憎しみ」からの引用だ。マチュー・カソヴィッツ監督、ヴァンサン・カッセル主演のこのモノクロ映画は、一九九五年に公開され(日本公開一九九六年)衝撃を呼んだ。
舞台はパリの郊外団地だ。「郊外」はフランス語ではバンリュー。語源的(ban+lieue)に見れば「支配圏内」という意味なのに「圏外」的なニュアンスがあるというねじれを包有する。
バンリューは公営団地が密集し移民労働者が多く暮らす地区で、排除された場なのだ。
ある社会学者はこの状況を「流刑」と呼んだと、『バンリュー』の著者は言う。「バンリュー映画」に特化した初の網羅的ガイドブックである本書に引かれたこんな科白(せりふ)が、それを如実に表現しているだろう。
「なんのために壁があると思っているんだ。蓋をして爆破してクソを一掃するんだ!」
「アルティメット」の警察署長の言葉だ。バンリューは権力側に抑圧され、怒り、抵抗する場でもある。こうした映画ジャンルを確立したのが、本書によれば先の「憎しみ」なのである。
警官の不当な暴力により団地内で一人の若者が瀕死(ひんし)の重傷を負い、若者たちの暴動が起きる。警官の落とした拳銃を拾ったユダヤ系、アラブ系、黒人の三人組の、怒りと暴走と絶望の横溢(おういつ)した一日足らずをカメラは追う。
「憎しみ」以後のバンリュー映画の重要作も本書は丁寧に教えてくれる。たとえば、アブデラティフ・ケシシュ監督「身をかわして」の項では、言語多重性について腑分(ふわ)けされる。若者たちの話すブロークンな、仏国内でさえ字幕がついたという「郊外語」と、古典劇の正統なフランス語が行き交う意味を。
ユゴーの名作と同名のラジ・リ監督「レ・ミゼラブル」には「憎しみ」の意図的反復ともとれる三人の男たちが出てくる。しかし彼らは逆にバンリューを取り締まる警官だ。しかし本作は易々(やすやす)と二項対立の図式に収まろうとしないと著者は指摘する。
バンリュー映画に描かれるのは、男性ばかりではない。セリーヌ・シアマ「ガールフッド」では、団地に暮らす黒人の女の子四人組が登場する。主人公マリエムの行動は団地外の基準で言えば、堕落と映るだろう。セックス、クスリ、暴力……。しかし重要なのは彼女の「どちらでもない選択」なのだと著者は言う。彼女の体は団地の中にも外にもないからだと。
「憎しみ」の或(あ)る箇所で、高所から飛び降りて落下中の男の心中が語られる。問題は落下じゃない、着地だと。バンリューにおける経済と教育の格差、失業と貧困の連鎖、そうした問題は未(いま)だにどこにも着地していない。著者は憤る――三十年経(た)っても「何も変わっていないじゃないか」と。
そして落下の途中にあるのは、観客である私たちも同じだと、この本は語りかけるのだ。
ALL REVIEWSをフォローする






































