書評
『ミシェル・フーコー』(講談社)
掛け値なしに第一級の現代思想家、M・フーコーが逝って早六年。『狂気の歴史』、『言葉と物』、『監獄の誕生』、『性の歴史』など構造主義以降の時代を拓いた重量級の著作群が、いよいよ輝きを増して継承者を待っている。
そんな折、フーコーの読み手として最も信頼のおける内田隆三氏が、一般読者向き概説書を著した。そこそこ気になりながら、フーコーの全貌を掴みあぐねていた向きにはうってつけの一冊である。
生前の伝記などをまとめた序章に続き、「フーコーの望遠鏡」、「変貌するエピステーメー」、「外の思考」、「権力と主体の問題」の四章構成。ともすれば錯綜して見えるフーコーの論述を、幾本かの補助線にそって、ズバリと切り分ける。本質的な論点を読みとるコツを手ほどきしてくれていてありがたい。例えば、どんな時代の思考を支える場(エピステーメー)も、思考不可能な余白の空間を背後にたたえていること(第一章)。「人間」もそうした場のなかから、歴史的に出現した形象のひとつにすぎないこと(第二章)。
とくに重要なのは、第三章「外の思考」であろう。内田氏は、レーモン・ルーセルやルネ・マグリットの作品などもうまく織りこみながら、フーコーの仕事が構造主義とどれほど隔たったものなのか、説得的に語っている。《サドからカントの時代以降二世紀近く……、西欧の言語は……「人間」によって占拠され、……人間的な主体=主観性によって……その形態を保ってきた……。人間的な経験の内部にいるかぎり……この言語に致命的な過不足を見出すことはない。だが、人間的な主体=主観性の〈外〉に経験の可能性を求めるとき……この言語の存在、この度しがたい有限性に直面する》
フーコーは言語をその外側から、出来事として捉えようとした。そうすることで、ニーチェの系譜学を受け継ぎ、生涯をかけて、西欧という思考の枠組みの外へ抜け出ることをはかったのだ。
そのためのユニークな試みが、言説分析、権力分析である。この「権力の問題系」を論じるのが、終章「権力と主体の問題」の前半。後半ではそれと境を接する「自己の問題系」を論ずる。最晩年のフーコーは、なぜ執拗に、古典古代の《人間の美学的=倫理的な主体化の様式》を追い始めたのか。前々から不思議に思っていた。内田氏もどこか尻切れとんぼにこの本を終えている。心ならずも人生を中断し、多くの問題をオープンに残したフーコーの紹介としては、これでいいのかもしれない。
ところで本書は、フーコーをまったく読んだことのない読者にはとっつきにくい用語や言い回しもあって、ちょっと不親切だ。いっぽうフーコーはとっくにおなじみという読者には、せっかく内田氏が書くのだから、もう一歩突っ込んだ踏み込みも欲しかったところ。どちらかに狙いをしぼるのも手だった。
ともあれこの一冊は、思想家フーコーの魅力ある実像を描いて余すところがない。読み進むにつれ、彼をますます身近な同時代人と感じるようになるはずである。フーコーとはまた別の知的系譜に連なるわれわれにとって、彼の悪戦苦闘は、他人事でありえない。ずしりと思い課題を手渡されたことになる。
巻末の参考文献リストは、なかなか親切で、入手しやすい基本書を網羅してある。これからフーコーをフルコースで堪能しようという人にはさっそく役に立つはずだ。
【この書評が収録されている書籍】
そんな折、フーコーの読み手として最も信頼のおける内田隆三氏が、一般読者向き概説書を著した。そこそこ気になりながら、フーコーの全貌を掴みあぐねていた向きにはうってつけの一冊である。
生前の伝記などをまとめた序章に続き、「フーコーの望遠鏡」、「変貌するエピステーメー」、「外の思考」、「権力と主体の問題」の四章構成。ともすれば錯綜して見えるフーコーの論述を、幾本かの補助線にそって、ズバリと切り分ける。本質的な論点を読みとるコツを手ほどきしてくれていてありがたい。例えば、どんな時代の思考を支える場(エピステーメー)も、思考不可能な余白の空間を背後にたたえていること(第一章)。「人間」もそうした場のなかから、歴史的に出現した形象のひとつにすぎないこと(第二章)。
とくに重要なのは、第三章「外の思考」であろう。内田氏は、レーモン・ルーセルやルネ・マグリットの作品などもうまく織りこみながら、フーコーの仕事が構造主義とどれほど隔たったものなのか、説得的に語っている。《サドからカントの時代以降二世紀近く……、西欧の言語は……「人間」によって占拠され、……人間的な主体=主観性によって……その形態を保ってきた……。人間的な経験の内部にいるかぎり……この言語に致命的な過不足を見出すことはない。だが、人間的な主体=主観性の〈外〉に経験の可能性を求めるとき……この言語の存在、この度しがたい有限性に直面する》
フーコーは言語をその外側から、出来事として捉えようとした。そうすることで、ニーチェの系譜学を受け継ぎ、生涯をかけて、西欧という思考の枠組みの外へ抜け出ることをはかったのだ。
そのためのユニークな試みが、言説分析、権力分析である。この「権力の問題系」を論じるのが、終章「権力と主体の問題」の前半。後半ではそれと境を接する「自己の問題系」を論ずる。最晩年のフーコーは、なぜ執拗に、古典古代の《人間の美学的=倫理的な主体化の様式》を追い始めたのか。前々から不思議に思っていた。内田氏もどこか尻切れとんぼにこの本を終えている。心ならずも人生を中断し、多くの問題をオープンに残したフーコーの紹介としては、これでいいのかもしれない。
ところで本書は、フーコーをまったく読んだことのない読者にはとっつきにくい用語や言い回しもあって、ちょっと不親切だ。いっぽうフーコーはとっくにおなじみという読者には、せっかく内田氏が書くのだから、もう一歩突っ込んだ踏み込みも欲しかったところ。どちらかに狙いをしぼるのも手だった。
ともあれこの一冊は、思想家フーコーの魅力ある実像を描いて余すところがない。読み進むにつれ、彼をますます身近な同時代人と感じるようになるはずである。フーコーとはまた別の知的系譜に連なるわれわれにとって、彼の悪戦苦闘は、他人事でありえない。ずしりと思い課題を手渡されたことになる。
巻末の参考文献リストは、なかなか親切で、入手しやすい基本書を網羅してある。これからフーコーをフルコースで堪能しようという人にはさっそく役に立つはずだ。
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