理念より影響力、公式の正しさの狭間
副題はロシア語通訳でエッセイストだった米原万里(よねはらまり)の『不実な美女か貞淑な醜女か』(新潮文庫)に由来する。米原昶(いたる)は米原万里の父親。社会主義に目覚めて旧制高校を中退、戦時中は地下に潜り、戦後は日本共産党の幹部になった。新聞『赤旗』の編集局長や理論誌『前衛』の編集長をつとめた。米原昶は1909年、鳥取県智頭(ちず)村(現智頭町)で生まれた。父親の米原章三は実業家で、のちに「日本海新聞」を創刊したり、ラジオ山陰や日本海テレビを開設したりする。昶が中学生のとき、父は県会議員になり、叔父は衆議院議員になる。昶が地下生活中に父は貴族院議員になる。もちろん父も叔父も保守派。
昶は49年の総選挙で鳥取全県区から立候補してトップ当選を果たしている。日本共産党の思想や政策を支持してというよりも、地元の名家のお坊ちゃまだから昶に投票した人が多かったのだろう。52年の総選挙からは落選を繰り返し、代議士として復帰するのは69年、しかもそのときは東京二区からの立候補だった。
政治家なんて落選すればただの人などとよくいわれるけれども、米原昶にとって国会議員になることは最大の目的ではなかったようだ。落選中も党幹部として大忙し。チェコスロバキア(当時)のプラハにあった『平和と社会主義の諸問題』という国際雑誌の編集局に、日本共産党代表として勤務する。家族も帯同して、のちに米原万里はプラハの学校の日々や友人たちとの再会を描いたエッセイ『嘘(うそ)つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)を書く。
50年代、60年代は、日本だけでなく世界中の共産党や左派政党が方向性を模索する時期だった。ソ連との距離をどうするか、核兵器についてどう考えるか等々課題は多い。日本でも共産党を離れて新しい党を結成する人々がいた。そんななか、米原昶はあくまで党組織の方針に忠実だった。
ところでこの本は「近代日本メディア議員列伝」シリーズの一冊。メディア議員とは政治のメディア化を体現した議員のことで、他の巻には中野正剛や三木武吉、橋本登美三郎、上田哲らの名前が並ぶ。本書も着目点は米原昶とメディアとの関係、あるいは昶自身のメディア性だ。
米原昶が編集局長だった『赤旗』は数々のスクープで知られる。最近も「裏金議員」問題を告発して自民党を大敗に追い込むきっかけをつくった。同紙は配達も集金も党員が行ってきた。紙という物質性と、配達・集金において読者と対面して築く関係性が同紙の強みでもある。
また、国会での質問がメディアになりうることも本書は教えてくれる。昶は74年、国鉄関連会社の大手書店が雑誌を発売日前に販売して地域の書店を圧迫していることを衆院議員商工委員会で取り上げた。この効果は大きく、半年後には業界団体間で発売日厳守が誓約される結果につながる。
副題の元になった米原万里のエッセイは、翻訳について、原文への忠実さを貞淑/不実、訳文の良さを美女/醜女とした。米原昶の生涯は、理念の実現よりも影響力の最大化を目指した「不実な政治」と、公式の正しさにこだわる「貞淑なメディア」の狭間(はざま)にあったと著者はいう。貞淑かつ美しくあることは難しい。