書評
『聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017』(創元社)
大きな沈黙に向けた発音練習
谷川俊太郎の詩のアンソロジーだが、編み方に特色がある。タイトルにそえて「on Listening 1950-2017」とあるとおり、聴くこと、聞こえるものをめぐるテーマから選んであって、計四十六篇。いかなる人が手をかしたか知らないが、シャレたことをしたものだ。詩人谷川俊太郎が誕生したのは、昭和二十七(一九五二)年の『二十億光年の孤独』によってである。このとき、二十一歳。三好達治は「突忽(とっこつ)とはるかな国からやってきた」と讃(たた)えたが、古い世代が待ちこがれた才能だった。抒情(じょじょう)詩人だが、戦前派の抒情とはちがう。あきらかに戦後の清新な感性と文体をおびていた。
ここには「1950」年の日付のある詩が二つ収めてある。音はまだひびくばかりで聴くまでにいたらない。表現にもたらされる前の手さぐり状態。そんな谷川俊太郎を知るのは珍しい。というのは、この人は現れたとき、すでに自分の詩のスタイルをしっかりもっていたからだ。ある日、言葉が風のように軽やかに吹いてきた。風が自分の好みのところに吹くように、そのように詩ができていく。そんな印象を与える詩人の誕生だった。風変わりなアンソロジーの最初の詩のいうとおりである。
明け方 どこかで
物音がする
まどろみながら耳が
聞いている
静寂とすれすれのかすかな音だが、たしかに「ここに世界が在ると証ししている物音」であって、それは匂いのように漂ってくる。
誰にも覚えがあるだろう。そんなまどろみのなかでは、記憶がとまどいながら循環する。終わりに近づくにつれて、もとの出発点にもどっていく。それでいい。「記憶に言葉を与えてしまう」と、それはもう記憶ではないからだ。散文詩のなかで問いかけた。「子供のまだ未分化な魂にうつっていた世界は、今では音楽によってしか思い出すことのできぬほど微妙なものだったろうか」
谷川俊太郎はよく語りかけるが、その語りかけの底には、自分を含め、木や風や世の生きものが、大きな一つの生命体のつながりであって、交流は当然だと、ひそかに信じているふしがある。それがこの人を、戦後に出現した日本の「国民詩人」の一人にした。
ああなんにもしたくない
カツ丼なんか食いたくない
友だちなんか会いたくない
女となんか寝たくない
生きたくもなく死にたくもなく、「歌うたうのももうやめた」が、しかし、ないないづくしの詩を書いて、それがいやでも、ないないづくしの秀抜な詩になっていく。
一見、無技巧で気どりがなくて飾りがなさげだが、言葉は勢いがつくにつれて、ここちよい緊迫した生理的リズムが生まれる。「どんな雑音のうちにも信号がかくれている、どんな信号のうちにも楽音がかくれている」(「聴く」)
テーマをしぼったアンソロジーのおかげで、おのずとよくわかるが、谷川俊太郎はとびきりの音と構成の詩人なのだ。音楽家武満徹の書く譜面を「白い大きい五線譜の片隅/音は涌(わ)き始めていた/孑孑(ぼうふら)のように」と描写したが、詩人の詩作は白い大きな沈黙に向けての発音練習でなくてはならない。詩人は沈黙してはならない。七十年に近い詩人の債務を、こんなにきっぱり言う人なのだ。
「言葉や声がどんなに信じ難いものであるにせよ、沈黙ではないものに賭けて生き続けること」
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