「逆U字カーブ」検証 圧倒的な読後感
微温的な日本の政治風土からすれば2021年にアメリカで勃発したトランプ支持者による合衆国議会議事堂襲撃は想像を絶する事件だった。民主主義を、誰を支持するのか以上に投票結果を尊重することだとみなすなら、アメリカはもはや民主主義の体をなしていない。いったいアメリカでは何が起きているのか。著者のうちR・パットナムは個人間のつながりや、見返りを求めずコミュニティーに参加する社会的絆を指す「社会関係資本」を政治学において提案したことで知られる。「社会関係資本」はいまや経済や社会の分析にも応用されている。主著『孤独なボウリング』(00年)では、アメリカで長らく市民が興じ人種や年齢、職業を超えて友愛の絆を育んできたボウリングが、いまや「独り」で黙々と玉を転がすスポーツと化していることを指摘し、対面でつながる市民団体の衰退を描いた。
本書ではさらに膨大かつ多種多様なデータに分け入り、「市民のつながりの衰退」が社会だけでなく経済、政治、文化と領域を拡げても見出せること、しかも衰退は125年前の19世紀末にも起きていたことを精密に論じている。
アメリカが建国されて約半世紀後の1831年、アレクシ・ド・トクヴィルがフランス政府の命を受け、憲法と参加型の政府によって自由と平等の両立が実現するのかを視察するために渡米した。多様なコミュニティーと諸制度を目の当たりにしたトクヴィルは、抑制のきかない個人主義に対する歯止めの役割を結社が果たしていると結論、「正しく理解された(見識ある)自己利益」と形容した。「社会関係資本」はそれを継ぐ概念である。
ところが大企業の独占が進んだ19世紀末の「金ぴか時代」に階層化が深刻化すると、最上層は放縦に走り最下層は困窮し、天然資源は乱獲され、先住民の権利と文化が虐げられて、「自己利益の制約なき追求」があからさまになった。社会関係資本はいまから125年前にも衰退していたのだ。これを「下降」と呼ぶならば、20世紀の前半3分の2で復興した。書名の「上昇(アップスウィング)」とはそれを指す。
ところが20世紀後半には再び衰退が始まる。著者は経済にかんしては所得平等、富の平等、世代間経済移動性、絶望死の数、組合加入率、税における累進性、金融規制や最低賃金等から「経済的平等性」の度合いを数量データで示し、1913年から2015年の期間で上昇と下降の「逆U字カーブ」を導出している。
同様に政治については議会における政党間協力、共和党の中のリベラルと民主党の保守の推移、大統領と議会で別の党を選ぶ「分割投票」の割合等から「政治的礼譲」の推移を描く。政党間協力が失われた果てに議会襲撃が生じたのだ。社会については全国会員制組織の創立年、教会所属会員数、礼拝出席率、社会への信頼等から「社会的連帯」を抽出する。文化については図書における「適者生存」と(コミュニティーと平等がキリストの教えだとする)「社会的福音」や代名詞「私」と「われわれ」の出現頻度、新生児名における伝統性等から「コミュニティー対個人主義」の推移を推定する。
驚くべきはその次だ。これらはすべて「逆U字カーブ」を描くが、「経済的平等性」、「政治的礼譲」、「社会的連帯」、「コミュニティー対個人主義」の軌跡が、ほぼ重なり合うのだ。作図の努力とこの発見が本書の目玉である。
著者はこの上昇―下降を「私―われわれ―私」カーブと呼び換える。金ぴか時代の利己主義は20世紀の前半で進歩主義運動の抗議を浴び、共有価値を核とする共同体主義へと転じた。それが後半では右翼も左翼も個人主義へと旋回したのである。
上昇と下降の各転換はどの時点で生じたのか。「上昇」の起点は、ルーズベルトの国内政策等の政治よりも利己主義への「批判と変化への広範な衝動」という文化表現が先んじたというR・ホフスタッターの指摘から、1900年周辺とする。
それが「下降」へと転じたのはピンポイントでJ・F・ケネディ暗殺の年、63年と指定される。直前にはJ・K・ガルブレイスが『ゆたかな社会』を出版、「われわれ」のために公共部門の拡充や社会的物的インフラの一層の充実を訴えた。そうした「われわれ」への同調圧力を鬱陶しく感じる若者たちが解放と個人主義を歌い始めた年である。象徴的なのはB・ディランで、63年の「風に吹かれて」では社会正義をアコースティック・ギターで唄ったが、65年にはエレキギターに持ち替え、自らの個性を表現し始めた。ビートルズにも同じ変化があるという指摘は音楽批評としても鋭い。
著者はいまいちどの「上昇」を目指し各自がコミュニティーで協調することを訴える。しかし63年の転換への反省から過剰な修正は戒め、積み残しとなった人種やジェンダーをも包摂する平等化は要請している。
圧倒的な読後感である。この逆U字カーブはアメリカだけの現象か、日本にも見出されるのか。大きな影響が予想される大著だ。