政治と異なる言葉と音楽で意識を覚醒
ラップ・フランセ、すなわち英語ではなくフランス語で書かれ、フランス語圏で力を得たラップとはどういうものか。翻訳のような「ごつごつした」違和感があるものの、曲として抗しがたい魅力を放つラップ。その誕生には、パリの郊外地区=バンリューに暮らす移民系の歴史が深くかかわっている。フランスは第二次大戦で失った労働力を大量の移民で補い、家族を呼び寄せるようになった彼らのために、シテ(団地)と呼ばれる低家賃の高層住宅を、大都市近郊に建設していった。
家庭内では祖国の言語を用いていた一世、フランス語で教育を受け、前の世代との葛藤を抱えながらフランスに同化していった二世、言語においても文化においてもフランス社会の内側で生きはじめた三世とつづいて共同体の密度が変化していっても、移民に対する差別意識は容易に消え去らなかった。芸術やサッカーで名をなすか、学業に救いを見出してこの世界から脱出しないかぎり、シテの若者たちの視野に入る仕事は多くない。
一九八〇年代に入ると、こうした閉塞感から一部の若者たちが非行に走り、郊外は社会の底辺として犯罪の温床のように見なされた。フランスのラップはこの時期に生まれて、九〇年代にひとつのピークを迎える。パリ北東部のサン=ドニで結成され、警察権力や政治家への批判を重ねたシュプレームNTMや、政治色の強くない詩的な詞を特徴とするダカール生まれのMCソラール、「コンセプト」に基づいた曲作りで、「破壊的であるよりも構築的な、閉じることよりも開くことによって、計画を追求する」IAM。政治とは異なる言葉と音楽で、いかに人々の意識を覚醒させうるか。これがアメリカから離れて独自の色を打ち出していくフランスのラップに通底する指標となる。
核になるのは、二〇世紀末から二一世紀初頭にかけて台頭する第二世代。二〇〇五年十月、パリ北東部の町で起きた痛ましい出来事が論の起点だ。北アフリカ系の少年が三人、警察の職務質問から逃れて変電所に駆け込み、二人が感電死したこの事件は、警察の横暴と人種差別に抗議する暴動を引き起こした。三週間に及ぶこの暴動を煽ったのは反権力を歌うラッパーたちだとして、議員有志が複数のグループの訴追を求めるという騒ぎもあった。
〇五年当時の内相はニコラ・サルコジ。郊外団地を掃除機で一掃してやると述べ、若者たちを「クズ」呼ばわりして反感を買い、二年後、大統領になると、最初の外遊地セネガルでアフリカ蔑視の暴言を吐いた。一五年のシャルリ・エブド襲撃事件と連続テロ事件、さらにその翌年、警官の暴行で黒人の若者が窒息死した事件が加わり、ラップ・フランセ周辺には宗教問題も重くのしかかる。
著者は時系列に沿いつつ、主題によって記述を柔軟に行き来させ、あわせて三十ほどの固有名をそれぞれにふさわしい章のなかで的確に提示していく。ただし全体の組み立てはきわめて「構築的」で、各章のタイトルが書き手の意図を明晰に示している。「『暴動』のあとさき」、「サルコジに抗して」、「シャルリ・エブド襲撃事件」、「アダマのために正義を」、「移民たち」、「ラーメン、マンガ、ネイション」。
郊外という舞台にルーツとしてのアフリカを加えた113(サントレーズ)。四枚のアルバムを残してイスラム教徒となったキプロス生まれのディアムス。隠語を駆使し、多言語を混ぜ合わせる「リュナティック」のブーバ。サルコジの発言に、「クズ」はそちらの方だと反撥(はんぱつ)したケニー・アルカナとケリー・ジェイムス。挙げていけばきりがない。セネガル人の母とコンゴのルンバ音楽家の父のあいだに生まれ、「人種や民族の問題」ではなく「一つの文化の歴史」としての、「黒い欲望」を歌うユースーファ。
他に、ゼフュ、バロジ、グラン・コール・マラッド、アブダル・マリク、アヤ・ナカムラ、アンジェル、ビッグフロ&オリ、サッカー場を八万人の観客で一杯にする「もっとも成功したラッパー」、キンシャサ生まれのギムス、ネクフ、スズヤらが次々に登場する。
本書には、読者の理解を助けるため、代表的な曲にインターネット上で公開されている公式動画にアクセス可能なQRコードが付されている。付録のCDやDVDの時代はもはや遠いのだろう。読んで聴き、聴いて読むことを反復するうち、「ごつごつした感じ」が少しずつ滑らかになっていく。
しかし私たちが手にしているのは、フランスのラップを網羅したカタログでも現代フランスをラップで読み解くという社会学的な試みでもない。世代ごとの担い手たちの、具体的な楽曲に対する、深い共感と真摯な問いかけである。「声をあげたくてもそうする手段をもたない人々を放置して何がラップなのか」と、初発の思いを忘れずに刻む著者も、まぎれもないラッパーのひとりだと言えるのではないか。