習い事上位に入る楽器の文化的謎解き
ピアノといえば、女の子の習い事を連想する人は少なくないであろう。これはあながち根拠のない先入観ではない。ある調査によると、「子供に習わせたい習い事」の上位三位は男の子が、水泳、英会話、野球なのに対し、女の子はピアノ、英会話、水泳の順になっているという。調査の時期や方法によって違いがあるものの、女子の習い事のなかでピアノはつねに上位に入る。国内向けピアノの販売台数は一九八〇年代をピークに年々下降線をたどっているが、電子ピアノを含めると、世帯当たり所有数量はいまも三割を超えている。同じ芸術でもお絵描きに比べて、ピアノは女の子に断トツに人気が高い。その理由は何か。謎解きの旅はここから始まった。
女の子が楽器に親しむべきだというイメージの形成には少女誌の感化によるものが大きい。明治四十一年に発刊された『少女の友』には音楽関連の記事や話題が多く、大正に入ってから楽譜付きの「教訓唱歌」が掲載された。ただ、いきなり洋楽器一辺倒ではない。箏(そう)、三味線、尺八は洋楽器のピアノ、オルガン、ヴァイオリンとともに女子に親しまれていた。大正初期になっても、ピアノとともに、箏は趣味の高い少女が奏する楽器であった。箏のイメージが低下したのは大正中期以降のことだ。ピアノは高価だったこともあって、いつの間にか経済力と社会的地位の象徴となり、小説や詩、あるいは挿絵に表象されるようになった。
夏目漱石の小説では洋のピアノと和の琴はそれぞれ新と旧の文化記号であった。山の手の生活様式が都市の拡大とともに広がるなか、女性たちが奏する楽器が琴からヴァイオリン、ピアノへと変化していく様子を何気ない描写に垣間見ることができる。時代の無意識は木洩(も)れ日のように文学テクストの細部にも降りかかっているのだ。
明治以降の日本画の歩みと比較すると、邦楽の衰退が著しい。西洋画・彫刻の美術教育をめざす工部美術学校が創立されたのは明治九年であったが、後に閉校となった。後続の東京美術学校は一転して日本画の教育に重点が置かれた。近代化において、日本画の創作と鑑賞の回路が切れ目なく続いており、フェノロサのように、欧米にも日本画擁護論者がいた。なぜ邦楽が凋落(ちょうらく)し、洋楽が音響芸術の主役に躍り出たのか。
百貨店の楽器販売戦略と家庭音楽という神話を読み解くことで、その理由の一つが見えて来た。三越は明治四十二年少年音楽隊を発足させ、演奏会の開催など音楽活動に乗り出した。百貨店を媒介に、西洋音楽とともに洋楽器は日常の生活空間のなかに持ち込まれ、ピアノは誰にも親しまれるという錯覚を人々に与えた。商品としての音楽が都市生活に浸透するなか、ピアノが中流家庭の憧れの楽器となり、家族みんなで音楽を楽しむことは人生の幸せという物語として共有されるようになった。
近代ドイツの音楽事情との比較を通して、外来の理念の受容や流行の深層に迫るのは気の利いた着想である。明治から大正にかけて「家庭音楽論」はいっとき盛んに提唱され、一家そろって音楽することは家庭を楽園にすることができるという言説が流布していた。ドイツをはじめとして欧米の家庭音楽論の影響を受けたものだが、著者はドイツの家庭音楽論の由来を精査し、政治や経済など社会の諸分野において英仏に後れをとったというドイツの特殊な事情があったことを指摘した上、外来の概念がひとたび日本に導入されると、日本の社会的な文脈のなかでいかに一人歩きをしはじめ、独自の展開を見せたか、史料の読みを通して巧みに解き明かした。
「ピアノを弾く少女」像の文化史的展開を追うことで、西洋音楽の受容における近代日本女性のかかわり方、ならびに近代的ジェンダー規範と音楽表象との相関性を浮かび上がらせたのは本書の最大の特色だ。
女学校の演奏会や音楽会は明治時代に現れ、大正以降、新聞や雑誌を通して社会的な認知度が高まった。女子学習院は特別な空間だが、ピアノを弾くことがなぜ女子の優美、幸福、高貴の隠喩になったか、丁寧な資料の解読を通して明らかにされた。
職業演奏家の分野では、かつて女性が男性を圧倒していた。明治時代に東京音楽学校の女性教員は男性の半分を占めており、その前身の音楽取調掛(とりしらべがかり)の伝習生一期生にいたっては、女性の方が多かった。
しかし、音楽はジェンダー規範の解放区ではないと著者はいう。女性の音楽習得に対する社会的寛容は、女子教育において、音楽は裁縫、家政、礼儀作法と並んで、良妻賢母に求められた家庭内の能力と見なされていたからだ。
職業演奏家の領域が女性に対して開かれたのも、音楽は女性にふさわしいという偏見があったからだ。男性が参入をためらっていたからこそ、音楽は女性に門戸が開かれた。音楽の世界において、女性が男性よりも活躍を見せた背後には、性差にもとづく文化の価値体系があったことが浮き彫りにされた。