『薔薇色のゴリラ―名作シャンソン百花譜』(北沢図書出版)
街にはシャンソンが流れていた
御茶ノ水の学生街がいちばん輝いてみえたのは、東京オリンピックの喧騒が去った直後の昭和四十年代の前半だったような気がする。僕はフランス語を習いにアテネ・フランセに通っていた。坂道のいたるところからまだ皇居の森やお濠端、靖国神社の大鳥居や後楽園球場がみえ、橡の木(マロニエ)や鈴懸(プラタナス)の大きな葉が緑をしたたらせ、秋には黄葉して一枚一枚影をつくって舞い落ちた。僕らは解放区をきどって教室から持ち出した机や椅子でちゃちなバリケードを築き、敷石をはがして石つぶてを作り、ジュラルミンの楯のむこうから撃ちこまれる催涙弾にむせ、涙をポロポロ流した。街にはシャンソンが流れていた。御茶ノ水駅斜めむかいの「ジロー」の奥まったスペースに「深緑夏代の部屋」というのがあり、夜ともなると元タカラジェンヌの小柄な深緑夏代が、黒ずくめのジュリエット・グレコばりの雰囲気を漂わせて登場し、「美しい人生」や「ミラボー橋」を歌った。
シャンソンが街角から消えて久しい。いつしか僕のフランス語熱もさめていた。あの頃の熱狂は何だったのだろうか。
しかし、最初の熱狂を決して逃がさない人もいる。
昭和十五年五月二十日、コロムビア盤『シャンソン・ド・パリ』六枚一組」をやっとの思いで手に入れた「私の目には黄色地三色刷のラベルが眩しく、アルコールで清められた手に載せる時、感動のあまりほとんど涙ぐんでいた。
シャンソンなど聴いていれば憲兵隊に連行されかねない情況下、空襲警報のサイレンを聴きながら押入れにもぐりこみ、絞りに絞った音量で「海賊の許婚」に耳を澄ます悦楽。この悦楽からついに逃れられず、屈指のシャンソン通、音盤(レコード)収集家となり、ついに大部で美しく、きわめつけのシャンソン読本をものしたのが歌人の塚本邦雄。
本の帯には「歌うゴリラのシャンソン読本」と寺山修司の言葉が刷りこまれているが、このゴリラとは、塚本が少年時代から探し求めていた「声」、底光りするバリトンの持主ジョルジュ・ブラッサンスの風貌と彼のシャンソン代表作「ゴリラ」、そして塚本本人の風貌にちなんだ寺山の命名だが、まさに打ってつけの感がある。しかし、僕は塚本の顔を知らず、ただ大阪の高校生だった頃からあこがれ、口ずさんだ塚本短歌の歌い主を、なぜかゴリラか熊の相貌と空想するのがたのしかったものだから、膝を打った。
塚本邦雄は、公演の喧騒を嫌う徹底した音盤派だ。ジルベール・ベコー、イヴェット・ジローの歌は一切認めず、日本人の歌う邦訳シャンソンもまた大嫌いである。翻訳による享受は、目読による詩歌・小説の場合に限られるとしたうえで、「枯葉」のルフランの終わり、「そして海の砂は、残された恋人たちの足跡をかき消す」から、啄木の『一握の砂』非収録の一首、「磯ゆけば浪きてわれの靴跡を消せりわれはた君忘れ行く」を引いてくれたりする。
名シャンソン歌手は悪声ぞろいだ。ダミアの濁声(だみごえ)、ピアフの錆びた金切声。(略)悪声を唯一の武器とするには天才を必要とする。
ダミアは昭和二十八年、来日して宝塚大劇場で公演した。還暦を迎え、引退前のダミア。塚本先生は出かけ、うつろな暗い心を抱いて帰路に着く……。
つい先日、十二月十一日付東京新聞夕刊を開いて、驚いた。「深緑夏代、退団以来四十一年ぶり、宝塚で里帰りシャンソン・コンサート。七十五歳」。僕には、ひょっくり幽霊に出くわしたようなものだ。
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