サティとドビュッシー
×月×日群馬県立館林美術館で行われた「鹿島茂コレクションフランスのモダングラフィック展」をキュレーションするに当たって、モダンの創造法の問題に突き当たった。一つはアカデミズムの中にいながら既存概念から脱しようと試みる内部改革者的方法。もう一つは既存潮流の外部から入り込み一気に文法や規範を転換させてしまう闖入者的方法。グラフィックの場合、前者はジョルジュ・バルビエ、後者はポール・イリーブやジョルジュ・ルパップに当たるが、ではクラシック音楽においてはどうなのだろう?前者はドビュッシー、後者はサティだと思われるが、果たして正確な関係はいかに?
ドビュッシーの演奏家で研究者でもあるピアニスト・青柳いづみこの『サティとドビュッシー先駆者はどちらか』(春秋社三〇〇〇円+税)は対比列伝の形式を取りながら、影響関係を実証的に検証してゆく試みである。
まず問題となるのが「ドビュッシーは何も見出さなかった。すべてはサティが考えたのだ。サティが火中の栗をひろい、ドビュッシーがそれを人々に売って利益を自分のものにしたのである」という一般的な見解である。ドビュッシーの演奏家・研究者の著者はこれに強い違和感を覚え、淵源を辿っていくうちにコクトーが一九二〇年七月七日に行った講演に行き着く。「ここでコクトーは、ドビュッシーの代表作『ペレアスとメリザンド』について、台本作者の選択はサティの着想であること、ワーグナー主義からの脱却もサティの忠告によるものだということを間接的に示唆している」。つまり、現代音楽の真の先駆者はサティであり、ドビュッシーはサティの力を借りた改革者にすぎないというわけだ。ドビュッシー派である著者は反発を覚えるが、二〇一六年に高橋悠治が弾くサティの『三つのサラバンド』を聞いたときに「突然、そのありえない和声進行に耳が吸い寄せられ」、サティとドビュッシーの関係について改めて考えてみようと思いたつ。
まず出自の比較から行くと、ドビュッシーはパリ・コミューン参加者を父に持ち、音楽の道に進めたのも父が獄中で知り合った作曲家が母のモーテ夫人を紹介してくれたからである。いっぽう、サティの父は音楽的素養もある裕福な海運業者で、サティは八歳から教会のオルガン奏者について音楽教育を受けていた。二人ともパリ音楽院に合格したが、ドビュッシーは本科、サティは予備科。ともに劣等生だった。ただし、ドビュッシーは一念発起して音楽院最高の名誉であるローマ賞を獲得。ローマ留学から一八八七年に帰国するとワーグナーの影響のもと『選ばれた乙女』の作曲に着手する。これに対し、サティは兵役を口実に音楽院を休学し、軍隊除隊後、一八八七年九月に『三つのサラバンド』を作曲する。ドビュッシーが『サラバンド』を作曲するのは一八九四年のことだから、サティが先駆し、ドビュッシーが影響を受けたように思われるが、そうとは言い切れないと著者はいう。「サティとドビュッシーの『サラバンド』の共通点として、『解決されない七や九を含む和音の平行進行』があげられるとすれば、少なくともその点でドビュッシーはサティの影響を受けていない」。というのもドビュッシーは音楽院時代から和音の平行進行による和声即興を行っているからだ。「パリ音楽院時代の和声即興からおしはかるに、二人は出会う前から同じような発想を持っていたということは言えるかもしれない」
では、二人の出会いはいつ、どこで行われたのか?通説では一八九一年、モンマルトルのキャバレー「オーベルジュ・デュ・クルー」だとされているが、出会いが「黒猫」だった可能性もある。サティは「黒猫」がロシュシュアール大通りからラヴァル通りに移転した後の一八八七年一二月からここに通うようになり、やがて第二ピアニストとして雇われたが、ドビュッシーは移転前から「黒猫」の常連で、移転後も「黒猫」に通い、そこでサティと出会った可能性が排除できないからだ。とはいえ、著者が最も蓋然性が高いと判断するのは象徴派文学の拠点「独立芸術書房」である。常連の一人ヴィクトール=エミール・ミシュレが「彼(ドビュッシー)はほぼ毎日、一人で、または彼の忠実な友エリック・サティとやってきた」と証言しているからである。ミシュレが言うには「彼(ドビュッシー)は、友人のエリック・サティの音楽的アイディアを利用することがあった」。しかし、サティはこう答えたという。「ドビュッシーは僕よりずっとうまく使うんだ」
出会いからしばらくの間、二人は強い友情で結ばれた。サティはドビュッシーの推薦で音楽院に再入学することができたし、ドビュッシーが代表作『ペレアスとメリザンド』を一九〇二年に初演したときには、コクトーの伝えるところによると「この方面ではもうすることはない。何か別の対象を探すか、破滅するかだ」と書いたという。実際、サティはこの後、『梨の形をした三つの小品』を作曲し、一九〇五年には、ドビュッシーの反対を押し切って対位法を習得するためスコラ・カントルムに入学してしまうのである。以後、二人の友情には微妙な影がさす。
では、二人の決定的な違いはどこにあったのか?著者によれば、ドビュッシーはワーグナーとは違う意味での音と言葉の合一を目指したが、サティは音と言葉は独立したものであると意識していたことだという。
この後者の理解により、ラヴェルや六人組はサティを先駆者と仰ぐようになり、評価も上がる。コクトーがディアギレフに依頼されて書いた自作バレエ『パラード』の音楽をサティに依頼したことで、この成り行きは決定的なものになる。
検討の末に最後に著者が結論として記している言葉が印象的である。「ドビュッシーが『耳の喜びのため』に音楽を書いたとすれば、サティは眼のために書いた作曲家と定義すると、二人の違いが浮かびあがってくるだろうか」。二人の肖像を眺めていると「確かに!」と思えてくる。