書評

『不平等と教育-日本の格差問題はなぜ解決しないのか』(中央公論新社)

  • 2026/08/10
不平等と教育-日本の格差問題はなぜ解決しないのか / 苅谷 剛彦
不平等と教育-日本の格差問題はなぜ解決しないのか
  • 著者:苅谷 剛彦
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:新書(288ページ)
  • 発売日:2026-06-22
  • ISBN-10:4121029151
  • ISBN-13:978-4121029157
内容紹介:
教育の不平等をめぐっては多くの研究・議論が行われてきた。だが、今なお解決には程遠い。その理由は、日本人の認識枠組みにあり、意味が曖昧なまま外来の流行語・翻訳語を使うため、議論が… もっと読む
教育の不平等をめぐっては多くの研究・議論が行われてきた。
だが、今なお解決には程遠い。
その理由は、日本人の認識枠組みにあり、意味が曖昧なまま外来の流行語・翻訳語を使うため、議論がすれ違うのだと著者は説く。
「大衆、機会均等の語義は原語と訳語でどう違うのか」「階級より階層、不平等より格差の語が使われる理由」など、鍵概念を手がかりに日本社会の思考の習性を探る。
日英で教鞭を執る著者の比較知識社会学。


◆目次◆
まえがき 教育論議は饒舌なのに、なぜ問題は解決しないのか
1章 「教育格差」論議の比較知識社会学
1 問題の所在
不平等に対する日本の向き合い方/実態把握の進展/政治や行政、私たちの認識を問う
2 「知識」は社会的に構成される
知識社会学とは何か/教育の現場や政策関係者の「常識」
3 比較知識社会学の試み
日本語は翻訳語でできている/「濾過の過程の見落とし」/輸入学問としての社会科学
4 「大衆教育社会」という経験
「大衆教育社会」とは何か/戦後日本の言説小史/「大衆」「能力主義」「格差」……/本書が取り組む課題

2章 「大衆」――生まれた時代と現代
1 大衆の発明
「大衆」の比較知識社会学/「大衆」という言葉を発明した男/工業化・都市化と普通選挙法/一向に明瞭でない正体/新奇性ゆえの流行
2 西洋における「大衆」概念
オルテガの大衆論/英国のmassの歴史/総力戦体制下における「国民化」
3 戦後日本の「大衆」「大衆社会」
1950年代の論争/西部邁の「高度大衆社会」論/大衆にまつわるネガティブさ/2章のまとめ

3章 「大衆化」――曖昧にされたエリートvs.マス
1 大衆教育とは何か?――戦前という前史
8割を占めた小卒者への教育/戦前教育学の重鎮の認識
2 強制的均質化と大衆教育
山之内靖の総力戦体制論/野口悠紀雄の1940年体制論/戦時の教育改革を率いた阿部重孝
3 「階級」の欠落
高校教育の大衆化/教育社会学の泰斗が見た60年代/トロウの発展段階論/第一人者による意訳/階級とmass higher education/曖昧化の作用/3章のまとめ

4章 「機会均等」――原語 “opportunity” との決定的違い
1 開かれた機会(opportunity)の信仰
教育を重視したブレア政権/「第三の道」とは何か
2 アメリカにおけるopportunity
19世紀のアメリカン・ドリーム/アメリカ公教育の思想基盤/コモンスクールの思想
3 日本語の(教育)機会の均等
「機会」とは何か/均等と平等の違い/日本の消極性・形式主義/戦後の機会均等/高校教育と高等教育の「機会均等」/トロウ論文が示すopportunity概念
4 「試験」が教育と成功を媒介する
立身出世の日米比較/試験という媒介項/4章のまとめ

5章 「格差」と「不平等」――「階級」でなく「階層」を使う功罪
1 メリトクラシー理解の日英比較
メリット=知能+努力の謎/階級社会とIQ/頑迷な誤謬/11歳の試験イレブン・プラス
2 日本における能力主義と知能、努力
努力主義をめぐって/知能検査への不信感/努力と適性(知能・素質)/能力主義の日本的理解の特徴
3「階級」の消長
戦前の階級意識と階級概念/「階級」という言葉の消去/戦後日本のマルクス主義/絶対移動と相対移動/「一億総中流社会」の階級意識/ギデンズとサヴィジによる階級概念
4 学校化された能力主義
ヤングのブレア批判/大衆‐努力の意味連関/非認知的能力ブームの落とし穴/サンデルが提示した尊厳の問題/5章のまとめ

6章 「大衆教育社会」という経験
1 「大衆教育」から教育の「大衆化」へ
教育と平等をめぐって/教育の量的拡大と「大衆化」 /高度成長期と擬似的な動員/国庫負担制度が果たした役割/「一億総中流社会」イメージの形成
2 格差社会と教育改革の語られ方
小泉政権と新自由主義改革の時代/「頑張れば誰でも」の強調/メリトクラシーの大衆化と「公平さ」の誤認/詰め込みから個性重視へ/融通無碍な曖昧さ
3 曖昧さの入れ子構造
なぜ有効な手立てが打てないのか/日本語の概念、原語の概念/隠れた曖昧さ/ブルデューの文化資本概念と日本/日英で異なる社会への訴求力/言葉の力を鍛えなおす

訳されて変質した字義がもたらすもの

「格差社会」や「教育格差」が指摘されて久しい。にもかかわらず、状況が改善されたとは言い難い。

さまざまな論議が交わされているなか、本書は教育の問題に対する認識の深層に目を向けるところに特徴がある。本質を見極めるために、二つの理解の軸が用意されている。横軸として、教育の問題について語るときに使用されている言葉についての英米と比較しながらの検証である。そうした言葉が介在してやり取りされた概念は現状を認識するときの知識の基盤になっており、問題解決の際、その方向性を左右する意味で重要な役割を果たしている。

教育について語るときに、英語からの翻訳語が多く用いられている。しかし、両者のあいだに意味のずれは少なからずある。また、翻訳語由来の概念は日本的な展開のなかで議論の方向を変えることもある。そのことを明らかにするために、縦の軸として歴史的な検証が行われた。

英語のmassは本来エリートとの対比で使われた言葉で、イギリスで普及したのは20世紀に入ってからである。やがて、階級という概念が含意するものが薄れ、第一次世界大戦中の総力戦体制のなかで「国民」というニュアンスを帯びるようになった。

massは1920年代になると、「大衆」という日本語に翻訳され、もともと英語にあった意味の曖昧さは日本的な文脈のなかで拡大された。戦前の「大衆教育」は中産階級以下の子弟のための質の低い教育を意味していたが、戦時体制下では階級的分断を残したまま教育の拡張が「国民教育」として提唱された。戦後の「教育の大衆化」には「大衆教育」の負の価値が希薄化し、教育の量的な拡大を意味するようになった。

日本は近代化の開始が遅く、階級の形成も西欧より遅い。世代間の階級が再生産される時期が短く、階級意識の定着は弱い。70年代になると、「教育の大衆化」により、階級概念が抜け落ちてしまった。教育の不平等は引き続き存在するが、その後「階級」の代わりに「階層」、「不平等」の代わりに「格差」といった、意味の曖昧な表現が目立つようになった。階級概念を用いて社会を認識するとき、対立や葛藤、緊張関係などの含意が入り込むのに対し、階層概念は語意の多義性を記号の積層に折りたたむことで現実に向ける眼差(まなざ)しをそらさせた。教育の不平等の原因の一つに、階級概念の欠落があったという指摘は問題の本質を突いて鋭い。

日本の能力主義の議論において、階級と知能との強い意味連関が欠落しており、学校での成功に関して、知能より努力を重視する考えが根強い。その点においてむしろ若い世代の直感の方が現実を的確に捉えている。「親ガチャ」という流行語には、生来の不平等と、階級間の越え難い地溝に対する諦めと深い嘆きが込められており、学校給食を主な栄養源とする子供たちにとって、努力神話はただのたわごとに過ぎない。

教育の問題について考えるとき、不平等という概念や階級の存在に目を向けるべきだという主張は「和の精神」を尊ぶ社会に一石を投じたが、社会科学にとどまらず、人文学の領域においても多くのヒントを与えてくれるであろう。
不平等と教育-日本の格差問題はなぜ解決しないのか / 苅谷 剛彦
不平等と教育-日本の格差問題はなぜ解決しないのか
  • 著者:苅谷 剛彦
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:新書(288ページ)
  • 発売日:2026-06-22
  • ISBN-10:4121029151
  • ISBN-13:978-4121029157
内容紹介:
教育の不平等をめぐっては多くの研究・議論が行われてきた。だが、今なお解決には程遠い。その理由は、日本人の認識枠組みにあり、意味が曖昧なまま外来の流行語・翻訳語を使うため、議論が… もっと読む
教育の不平等をめぐっては多くの研究・議論が行われてきた。
だが、今なお解決には程遠い。
その理由は、日本人の認識枠組みにあり、意味が曖昧なまま外来の流行語・翻訳語を使うため、議論がすれ違うのだと著者は説く。
「大衆、機会均等の語義は原語と訳語でどう違うのか」「階級より階層、不平等より格差の語が使われる理由」など、鍵概念を手がかりに日本社会の思考の習性を探る。
日英で教鞭を執る著者の比較知識社会学。


◆目次◆
まえがき 教育論議は饒舌なのに、なぜ問題は解決しないのか
1章 「教育格差」論議の比較知識社会学
1 問題の所在
不平等に対する日本の向き合い方/実態把握の進展/政治や行政、私たちの認識を問う
2 「知識」は社会的に構成される
知識社会学とは何か/教育の現場や政策関係者の「常識」
3 比較知識社会学の試み
日本語は翻訳語でできている/「濾過の過程の見落とし」/輸入学問としての社会科学
4 「大衆教育社会」という経験
「大衆教育社会」とは何か/戦後日本の言説小史/「大衆」「能力主義」「格差」……/本書が取り組む課題

2章 「大衆」――生まれた時代と現代
1 大衆の発明
「大衆」の比較知識社会学/「大衆」という言葉を発明した男/工業化・都市化と普通選挙法/一向に明瞭でない正体/新奇性ゆえの流行
2 西洋における「大衆」概念
オルテガの大衆論/英国のmassの歴史/総力戦体制下における「国民化」
3 戦後日本の「大衆」「大衆社会」
1950年代の論争/西部邁の「高度大衆社会」論/大衆にまつわるネガティブさ/2章のまとめ

3章 「大衆化」――曖昧にされたエリートvs.マス
1 大衆教育とは何か?――戦前という前史
8割を占めた小卒者への教育/戦前教育学の重鎮の認識
2 強制的均質化と大衆教育
山之内靖の総力戦体制論/野口悠紀雄の1940年体制論/戦時の教育改革を率いた阿部重孝
3 「階級」の欠落
高校教育の大衆化/教育社会学の泰斗が見た60年代/トロウの発展段階論/第一人者による意訳/階級とmass higher education/曖昧化の作用/3章のまとめ

4章 「機会均等」――原語 “opportunity” との決定的違い
1 開かれた機会(opportunity)の信仰
教育を重視したブレア政権/「第三の道」とは何か
2 アメリカにおけるopportunity
19世紀のアメリカン・ドリーム/アメリカ公教育の思想基盤/コモンスクールの思想
3 日本語の(教育)機会の均等
「機会」とは何か/均等と平等の違い/日本の消極性・形式主義/戦後の機会均等/高校教育と高等教育の「機会均等」/トロウ論文が示すopportunity概念
4 「試験」が教育と成功を媒介する
立身出世の日米比較/試験という媒介項/4章のまとめ

5章 「格差」と「不平等」――「階級」でなく「階層」を使う功罪
1 メリトクラシー理解の日英比較
メリット=知能+努力の謎/階級社会とIQ/頑迷な誤謬/11歳の試験イレブン・プラス
2 日本における能力主義と知能、努力
努力主義をめぐって/知能検査への不信感/努力と適性(知能・素質)/能力主義の日本的理解の特徴
3「階級」の消長
戦前の階級意識と階級概念/「階級」という言葉の消去/戦後日本のマルクス主義/絶対移動と相対移動/「一億総中流社会」の階級意識/ギデンズとサヴィジによる階級概念
4 学校化された能力主義
ヤングのブレア批判/大衆‐努力の意味連関/非認知的能力ブームの落とし穴/サンデルが提示した尊厳の問題/5章のまとめ

6章 「大衆教育社会」という経験
1 「大衆教育」から教育の「大衆化」へ
教育と平等をめぐって/教育の量的拡大と「大衆化」 /高度成長期と擬似的な動員/国庫負担制度が果たした役割/「一億総中流社会」イメージの形成
2 格差社会と教育改革の語られ方
小泉政権と新自由主義改革の時代/「頑張れば誰でも」の強調/メリトクラシーの大衆化と「公平さ」の誤認/詰め込みから個性重視へ/融通無碍な曖昧さ
3 曖昧さの入れ子構造
なぜ有効な手立てが打てないのか/日本語の概念、原語の概念/隠れた曖昧さ/ブルデューの文化資本概念と日本/日英で異なる社会への訴求力/言葉の力を鍛えなおす

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2026年8月1日

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