書評
『「共感」の思想史 ヒューム、スミスから現代へ』(岩波書店)
利己心と博愛心 どのような関係か
7月末の地震以降、熊本の避難所からは、入浴できない等の困難が伝えられている。想像するだに暑苦しく、メーカーと連携してシャワーを運ぶ支援を行う人がいるという。2025年末に報じられた内閣府の世論調査では、6割強が「社会の役に立ちたい」と答え、その4割強が「自分の職業を通じて」と続けている。勤労は賃金を稼ぐ利己的な作業でありながら、他者の共感に応えたいという思いとは切り離せないらしい。ところが経済学や政治学という近代の社会思想は、利己的な人間たちが集まり、いかにして秩序や平和が築かれるかを主に論じてきた。その代表がA・スミス『国富論』(1776年)だとされ、「われわれが自分の食事をとるのは、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではない」という一節がしばしば引用される。ところが当のスミスはその17年前に『道徳感情論』(1759年)を出版、「想像上の立場の交換」にもとづく「共感」を唱え、改訂は死の前年まで続いた。利己心と博愛心、共感は、どんな関係にあるのか。
著者は『ヒュームの文明社会』(創文社、1995年)で私有財産や「法の支配」が欲求と勤勉と共感を通じ豊かで秩序ある社会を生み出すと唱えたというヒューム像を打ち出し、定説とされてきた。今回はヒュームの共感論にその乗り越えを図ったスミス『道徳感情論』を加え、ふたりの思考をスリリングに描き出す。
これまで社会思想は「万人の万人に対する戦争」のT・ホッブズや「私悪は公益」のB・マンデヴィルの「利己心」説、それに「道徳感覚」のシャフツベリや「仁愛」のF・ハチソンの「利他心」説を対置するのが一般的だった。ヒュームはいずれも極論だとみなす。人間は本来、利他的であるのに「天然資源の希少性」に制約され、現実には「制限された寛大さ」しか持てない。豊かであれば利他的、欠乏すれば利己的なだけである。ある行為が「善(よ)い」か否かは、人間関係(社交)を通じて各人が心の中で育てた「厳正な観察者」が、行為者の得ている「効用」を、表情や会話から「鏡」に映すごとく共感し、判断している。
スミスは心中の「観察者」に「公平」さを求め、既存の解釈はそれを「街ですれ違う」ような冷ややかさととらえてきた。だがそれだと「鏡」に映すのと変わらない。著者は想像により「立場の交換」を行えば、観察者が「加熱」する局面もあるとする。行為者と観察者は互いを想像して「冷却」と「加熱」を繰り返し、「相互的共感」に達するのである。対象は「効用」に止(とど)まらない。
その上で著者は、斬新な推測を述べる。市場での相対取引において売り手(行為者)と買い手(観察者)が会話を通じて互いに最高価格と最低価格を模索するなら、均衡した取引は「完全な共感」を伴うはずだ。『国富論』の市場価格すなわち現実の価格は、公正な価格でもあることになる。『道徳感情論』と『国富論』は緊密に結びつくという読みである。一貫性において説得的なスミス理解である。
心を互いの「鏡」とみなす共感論は、驚くことに1990年代に神経生理学が高等霊長類に共通することを発見した神経細胞「ミラー・ニューロン」によって現実の裏付けを得た。古典は最前衛でもあることを証す一冊である。
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