書評
『アウグストゥス: 虚像と実像』(法政大学出版局)
平和を実現するための計算高さ
世に英雄とよばれる定番は、アレクサンダー大王、カエサル、ジンギスカン、ナポレオンなどである。なぜだか、ローマ帝国の創設者アウグストゥス帝は念頭に浮かばない方々が多い。暗殺された大伯父カエサルの遺言で、オクタウィアヌスは19歳の若さで養子相続者に指名された。そのせいか、大軍を率いて先陣を切る勇将というイメージが薄いからだろう。前6世紀末に共和政を実現したローマ人の社会には、500年もの長きにわたって独裁者を忌み嫌う雰囲気が根強かった。カエサルでも共和政国家を倒すなどと表立って言えるわけではなかった。だが、終身の独裁官になったことが疑惑を深め、前44年3月15日に共和派の刃に倒れる。カエサルには腹心の部下マルクス・アントニウスがいたので、共和派排除後、オクタウィアヌス派とアントニウス派の内乱がつづいた。その十数年間、論争、諜報活動、武力衝突、汚職、背信、残虐行為にあふれていた。
この暴力と裏切りが渦巻く世界で、オクタウィアヌスには「父」の至上の地位を引き継ぐという揺るぎない決意があったというから凄まじい。この点で、永続する最高権力の獲得を目指して道を切り開いていった最初のローマ人であった。その野心のために、ときに不誠実であり、狡猾であり、残忍であったが、そのことを彼は厭わなかったのだ。
その詳細を具体的な素材によりそって解きほぐすのは、ことのほか難しい。史料には時勢の雰囲気や流言、書き手の思惑や偏見、入り乱れた人間関係などが潜んでいるからだ。たとえば、アントニウスはエジプト女王クレオパトラの魅力にとりつかれ、情事におぼれて、数々の政治判断を誤ったと伝えられることがある。だが、そこには政敵の思惑が見え隠れしており、アントニウス側にも自身の政治的立場を有利にする意図があったというのが真相だろう。
前31年、アクティウムの海戦で、アントニウスとクレオパトラの連合軍は敗れ去る。連合軍の戦略ミスと腹心アグリッパの軍才のおかげで転がりこんだ勝利にすぎなかった。だが、オクタウィアヌスの吹聴政略は巧みで、まるで天下分け目の合戦として世界史を画する出来事にしてしまった。そこには、オリエンタリズムへの根強い恐怖があるともいう。
前27年、若き最高権力者はアウグストゥス(尊厳なる者)の称号を得る。アウグストゥス自身の手になる『業績録』の碑文には、それに先立って「国家を元老院と市民の裁量に戻した」と刻まれている。この謙虚な態度の結末がどうなるか、ギャンブル好きの第一人者のことだから、元老院にも市民にもそれを担う力がないことを読んでいたという。
独裁を嫌悪していた共和政信奉の社会で唯一の支配者が生き抜いて君臨するのである。もちろん義父カエサルの轍をふまないように、アウグストゥスは巧妙かつ狡猾にふるまい、政治家として進化したという。昔ながらの反感がくすぶるなかで、一個人の権威が高まるのはまるで突然変異の大転換にほかならない。政敵であったポンペイウスや小カトーの「善良さ」を讃えたと言われるが、もはや元首の国家制御を人々が自明のものと見なしていたからだ。
19歳で政治の舞台に登場したときの世界は、76歳でこの世を去ったときには、まったく異なるものになっていた。この時代には政治制度が大きく変わっただけでなく、「思想、理想、価値観」もまったく異なる重要性をおびる。なによりも、アウグストゥスはローマ社会に幸福感が行きわたることの大切さに気がついていた。そのためには、社会規範を正すことも重要だった。地方都市では元首を崇拝する動きすら生まれてくるが、現人神(あらひとがみ)なのか、微妙だった。
ところで、著者はアウグストゥスに手厳しいところも少なくない。『業績録』に描かれた「武勇」は疑問であり、「寛容」となるともっとあやしい、という。そこでは、器用にして曖昧な勝者アウグストゥスが人からどう見られたいと望んでいたか、それが解釈の分かれ目になる。
ここまで来ると、アウグストゥスの生来の資質がどうであったかを問わなくてもいいような気がする。むしろ、平和で豊かな国家を実現しようとして、勇敢で寛容であらんと必死に努めていた現実的で計算高い人物だったと評者は理解する。
それにしても、稀なほどの成功者でありながら、アウグストゥスは私人としては恵まれなかった。一人娘ユリアは身持ちの悪さで世評にあがり、後継者の孫2人には若くして先立たれてしまう。
ただ一つだけ幸運だったのは、人妻だったリウィアを娶ったことである。彼女の美貌と知性にこよなく魅されていたらしい。その愛くるしい彫像を見れば、2000年後の評者も共鳴する(笑)。ともあれ、死の床にあって、人生の芝居を上手く演じた役者としての自分への拍手喝采を求めた後で、愛妻の両腕に抱かれつつ、安らかな最期をとげたという。
長年オックスフォードで教鞭をとったローマ史研究の碩学(せきがく)による最良の啓蒙書・学術書は好ましい。
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