書評
『シンボルの哲学――理性、祭礼、芸術のシンボル試論』(岩波書店)
言語からはみ出すジャンルの論理性
旧訳はあるが、今回新訳で文庫として出版されることになった。原著の初版は一九四二年の刊行、その後何回か版を重ねている。著者(一八九五-一九八五)はアメリカで女性の哲学者として認知された、最初の人物だろう。アメリカ生まれではあるが、両親ともにドイツ系で(因(ちな)みに結婚した相手もドイツ系だった)、彼女の母語はドイツ語だったという。幼い頃からピアノを弾き、終生チェリストでもあった。母語がドイツ語だったことは、当時の先行するドイツ語系の哲学書、カッシーラーに代表される新カント派、ヴィトゲンシュタインを象徴とするウィーン学団と呼ばれる論理実証主義の一派などに親しむのに有利な立場にあり、アメリカにいることで、ラッセル、ホワイトヘッドなど英米系の同時代的哲学思想、さらには、心理学の新しい成果(例えばケーラーのゲシュタルト概念)などを読み込む環境にもあった。しかし、彼女は、決して単なるそうした諸家のエピゴーネンではなく、その達した境位は、彼女が独自に総合し上げたものであった。言語的世界と、それを食(は)み出す芸術的表現や宗教的、超越的な表現も含む、極めて広い視野から、英語で言うサインとシンボルとの差を巡る著名な議論までを丹念に扱った、傑出した論考となっている。原著のタイトルは<Philos−ophy in a New Key>、この<key>は、音楽に長じていた彼女ゆえ、「音楽用語」の意味合いを含んでいると思われる。
本書を貫く最大のキーワードは、言うまでもなく「シンボル」で、だからこそ邦訳のタイトルも伝統的に「シンボルの哲学」とされるが、シンボルという概念設定をしたとたんに、常識は裏切られる。論理の定義は幾つもあるが、この頃、とりわけ旧くからの論理概念の大革新を終えたばかりの時代にあって、最も信頼のおける論理の定義は、「少数の論理語の使用規則」というのが一般的で、飽くまでそれは、言語に属するものと考えられた。しかし、著者は、シンボルの論理性という主張を、かなり強く打ち出す。そうなれば当然、例えば音楽演奏の世界にも、あるいは宗教的イコンのようなジャンルにも、明確な「論理性」が認められることになるからである。
本書の第八章は音楽論に捧げられているが、通常哲学、言語論、記号論などでは、あまり介入するのを避ける音楽に、直接経験や、肉体的な「動き」などの「論理構造」に着目することで、極めて新鮮な議論が展開されるのを読むのは楽しい。無論著者は、音の世界と言語とが、安易に重ね合わされることの危険は、「音楽に字義的な意味はない」と断言することによっても、十分に了解している。その上で、シンボルの豊かな機能を、実例に即して分析していく手法は、並々でない。
次の章で、人間の文化の歴史的展開のなかで、音楽が「遅れてきた」ジャンルであることを、暫定的に肯定しているが、それがむしろシンボル世界としての純粋性を示すものでもある。「音楽」的世界では、「遅れ」は確かにあるが、自然の「論理的」構造としての「音楽」は、古代ギリシャ以来西欧の伝統に確固としてあるのは、どう説明されるのだろうか。疑問も残る。音楽関係だけに評が留まったのは、著者もさることながら、訳者の思い入れも深いからである。
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