書評

『天下の今日性――世界秩序の実践と想像』(みすず書房)

  • 2026/06/08
天下の今日性――世界秩序の実践と想像 / 趙 汀陽
天下の今日性――世界秩序の実践と想像
  • 著者:趙 汀陽
  • 翻訳:石井 剛(監訳),円光 門
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(360ページ)
  • 発売日:2026-05-13
  • ISBN-10:462209813X
  • ISBN-13:978-4622098133
内容紹介:
いまわたしたちが「世界」と呼んでいるものは、真の世界ではない。それは、主権国家の利害に分断された集合体にすぎない。現行の国際秩序もまた、強国の力学に規定された非世界的な秩序であり… もっと読む
いまわたしたちが「世界」と呼んでいるものは、真の世界ではない。それは、主権国家の利害に分断された集合体にすぎない。現行の国際秩序もまた、強国の力学に規定された非世界的な秩序であり、主権国家体制の従属物である国連も真に世界的な利益を代表しえない。グローバル化により相互依存が不可逆的なまでに深化した今日の世界に必要なのは、世界を一つの政治主体として成立させる原理、すなわち〈天下システム〉である。そこでは、近代政治的な友敵区分を超えて、〈天下〉―”天の下のすべて”を包摂する秩序が志向される。最優先とされるのは、最大利益の追求ではなく〈関係〉の持続可能性であり、破局の回避こそが合理性の基準となる。合理性そのものを組み替えるこの視点に、本書の独自性が示される。人新世的危機の時代に、人類文明の破綻を回避するための普遍的秩序を問う。世界を真に世界たらしめる条件を探る、中国からの哲学。

目次
序章 天下による政治概念の再定義―問題、条件、方法(政治主体としての世界;最悪可能世界と最善可能世界 ほか)
第1章 天下概念の物語(世界から始まる政治;三層世界の天下 ほか)
第2章 天下を内包した中国(渦巻モデル;天下の縮小版 ほか)
第3章 天下秩序の未来性(世界の歴史はまだ始まっていない;カントの問いとハンチントンの問い ほか)

西洋、中国両思想から非覇権の秩序を導く

本書は来たるべき時代の地球秩序について、中国の代表的な哲学者が学問的検討という形で自らの見解を示したものである。ポスト戦後世代の中国知識人が何を考えているかを知る上で、重要な手がかりになる。

著者は一九六一年生まれで、二〇〇〇年に本書のもとになる論文を英語で発表し、欧米でも注目を集めた。その後、国内外からの論評や批判を踏まえて研究が深められ、その成果が本書にまとめられた。これまで英語、フランス語、ドイツ語、韓国語に訳されているが、日本でもついに全訳が出た。

中国の歴史について、本書では現代の政治概念を用いて三つの政治モデルに分けて捉えられている。一つは周王朝に象徴された「天下政治」、二つ目は春秋戦国に代表される「国際政治」、三つ目は秦朝から清までの「国家政治」である。春秋諸国を現代の世界構造に見立て、戦国時代の合従連衡を今日的に解釈したものが、彼がいうところの「国際政治」である。それに対し、周辺国との関係を冊封体制のなかに安定させ、王権の支配は民と領地の管理に徹している点において、秦以降の王朝が「国家政治」を行っていたという比喩が用いられている。

問題の核心は理想的な政治として挙げられた「天下政治」である。本書によると、紀元前一〇四六年頃から前二五六年まで約八〇〇年続いた周王朝の政治原則は天下の概念と、徳治と協和の策略に体現されたという。徳治とは公平な利益配分で、協和は政治団体や個人のあいだの協力関係を保証する政治原則である。中心的な概念である「天下政治」は統治方法という意味より、普遍的秩序の修辞的表現である。天下政治の実施によって「天下システム」が出来上がる。

周王朝における天下システムは分封制度によって実践されている。著者はこれを称して「世界一体分治」の監護制度だという。言うまでもなく、この場合の「世界」とは古代中国人の認識しうる地理空間しか意味していない。周王朝においては、天下システムのもとに世界政治は一つにまとめられ、世界政治主体を構成する。各諸侯国は独立自治を行いつつもその一部をなしている。宗主国は全体的秩序を監護し、共通の利益を保護する義務を負う。宗主国と各諸侯国は相互依存関係にあり、双方が相手に対し監護の役割を果たしている。

この解釈は現代の政治学の術語を使っている点を除いて、これまでの諸説と共通点が多い。周王朝を理想政治とするのも孔子以来の儒教の伝統である。

ところが、著者が提唱する天下システムは、中国古代政治論にとどまらず、将来、国際秩序のモデルとすべきものである。

本書によると、世界秩序とは、一つの覇権国や列強間の同盟が世界を支配するものではなく、世界の共通利益を基準とする世界主権の秩序であるべきだという。そして、正義は一つの国が世界のために立てたゲームルールではなく、すべての国のために確立されたゲームルールのもとではじめて実現できる。

覇権システムによる支配から世界を救い、将来起こりうるハイテク戦争や技術システムによる全面的専制から世界を救うために、世界のあらゆる人々に属する世界秩序――「新天下システム」を創造しなければならない。そうすることで、はじめて人類の普遍的な安全と共享的利益を守ることができる、と著者は主張する。

米中の覇権争いを念頭に置いて読むならば、地政学的な想像力がかき立てられるかもしれない。しかし、学問探究の視点から見れば、違う風景が現れてくるであろう。

まず、本書の主旨は平和共存であって、覇権の交代を意図したり、主張したりするものではない。結論の是非はさておき、博引旁証(ぼうしょう)の議論は機知に富んでおり、細部の叙述には傾聴すべき洞察や知見は少なくない。

目を引くのは、西洋哲学の思考法を念頭におき、近代的な用語を使って中国思想について再解釈を行う試みだ。荀子の説は「関係理性」の大切さを説いたものだとし、孔子がいう「仁」が普遍的人情だとする主張は、いずれも西洋の個人主義や理性の神話化を意識したもので、儒学の理論に新たな可能性を引き出そうとしている。

欧米思想については、古典はいうにおよばず、近年の学説にも目配りが行き届いている。参照された分野は政治哲学にとどまらず、経済学、社会学、歴史学、ゲーム理論などにも及んでいる。

西洋思想との比較は中国思想と対立させるのではなく、両者は相互補完の関係にあると著者はいう。むろん、主観性の背反はつねに存在している。しかし、罅(ひび)だらけの価値観共有より、政治美学の相違を明らかにしたほうがいさぎよい。大事なのは意思疎通が成り立っているかどうかだ。信念の当否はともかく、論点がすれ違い、会話がかみ合わないわけではない。西洋哲学の論理世界のなかで、非西洋的思考とのあいだにどう架橋を試みるか。語りの技術に磨きをかけ、辛抱強く対話を続ける精神に将来の希望を託したい。
天下の今日性――世界秩序の実践と想像 / 趙 汀陽
天下の今日性――世界秩序の実践と想像
  • 著者:趙 汀陽
  • 翻訳:石井 剛(監訳),円光 門
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(360ページ)
  • 発売日:2026-05-13
  • ISBN-10:462209813X
  • ISBN-13:978-4622098133
内容紹介:
いまわたしたちが「世界」と呼んでいるものは、真の世界ではない。それは、主権国家の利害に分断された集合体にすぎない。現行の国際秩序もまた、強国の力学に規定された非世界的な秩序であり… もっと読む
いまわたしたちが「世界」と呼んでいるものは、真の世界ではない。それは、主権国家の利害に分断された集合体にすぎない。現行の国際秩序もまた、強国の力学に規定された非世界的な秩序であり、主権国家体制の従属物である国連も真に世界的な利益を代表しえない。グローバル化により相互依存が不可逆的なまでに深化した今日の世界に必要なのは、世界を一つの政治主体として成立させる原理、すなわち〈天下システム〉である。そこでは、近代政治的な友敵区分を超えて、〈天下〉―”天の下のすべて”を包摂する秩序が志向される。最優先とされるのは、最大利益の追求ではなく〈関係〉の持続可能性であり、破局の回避こそが合理性の基準となる。合理性そのものを組み替えるこの視点に、本書の独自性が示される。人新世的危機の時代に、人類文明の破綻を回避するための普遍的秩序を問う。世界を真に世界たらしめる条件を探る、中国からの哲学。

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序章 天下による政治概念の再定義―問題、条件、方法(政治主体としての世界;最悪可能世界と最善可能世界 ほか)
第1章 天下概念の物語(世界から始まる政治;三層世界の天下 ほか)
第2章 天下を内包した中国(渦巻モデル;天下の縮小版 ほか)
第3章 天下秩序の未来性(世界の歴史はまだ始まっていない;カントの問いとハンチントンの問い ほか)

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2026年6月6日

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