書評
『命を選ぶ 遺伝病の運命に抗ったある女性の物語』(祥伝社)
現在NHKで放送中の「映像の世紀 バタフライエフェクト」にプロデューサーとして関わる寺園慎一さん。寺園さんが「一気に読み」、その綿密な取材力に「圧倒された」という『命を選ぶ 遺伝病の運命に抗ったある女性の物語』。寺園さんは、このノンフィクションのどこに強く惹かれたのか。
制度や国家の論理に翻弄される“ひとりの個人”に寄り添うこと──それはドキュメンタリーの王道であり、私自身が大切にしてきた視点でもあります。
下山進さんの『命を選ぶ 遺伝病の運命に抗ったある女性の物語』は、まさにその王道を真正面から貫いています。一気に読みました。綿密な取材に裏打ちされた説得力に圧倒されました。
この本は、遺伝性の病気を時代に伝えないための医療技術「着床前診断」が日本に導入される30年の過程を描いたノンフィクションです。
賛成派、反対派、どちらもキャラクターが魅力的で、難解な部分もつまずくことなく読み進められました。
特に、1970年代に活動した脳性まひ者の団体「青い芝の会」が、出生前診断の議論にここまで大きな影響を与えていたことは、恥ずかしながら本書で初めて知りました。私も原一男監督のドキュメンタリー『さようならCP』(1972年)をかつて見たことがあり、あの運動の強烈さに衝撃を受けた経験があります。その主張が社会の判断をここまで長く左右してきたことは驚きでした。
NHKのドキュメンタリーでも、この分野はたびたび取り上げられています。私も2000年放送のNスペのシリーズ「世紀を越えて」で「人体改造の衝撃」というドキュメンタリーを作ったことがあります。IPS細胞の前のES細胞発見を取り上げた番組でした。こういう最先端テクノロジーを扱う場合、NHKではだいたいにおいて、“警鐘を鳴らす”のが伝統的な姿勢です。
ドキュメンタリーの宿命みたいなものです。技術の進歩を必ず疑ってかかるというメンタリティーが染みついています。それはそれで一理あるのですが、この番組を作った当時、そのメンタリティーに窮屈さを私は多少感じており、警告するよりも、まずはこの技術の革新性を伝えたいという気持ちで作った記憶があります。
下山さんのこの本は、そうしたドキュメンタリーが定番としてきた考え方を、圧倒的な取材と論理展開で覆しています。「最終的に決めるのは、第三者ではなく当事者自身であるべきだ」というシンプルで強い論理が、読者の心にまっすぐ届きます。
そしてもうひとつ引きつけられたのが、登場人物のキャラクターです。網膜芽細胞腫という遺伝病の連鎖に苦しむ主人公の野口麻衣子さんの一家の物語はもちろん感動的なのですが、最も心揺さぶられたのは、山中美智子医師でした。
山中医師は、神奈川県立こども医療センターの産婦人科医でしたが、この本のもうひとりの主人公篠岡一実(かずみ)ちゃんを薫さんが出産した際の担当医でした。
一実ちゃんは重度のダウン症として生まれてきますが、母親の薫さんは出産までそのことを知らずショックをうけます。そして救命のための緊急手術を両親が拒否するのです。
山中医師が、羊水検査をできなかったのには理由がありました。1976年に神奈川県知事が、「青い芝の会」と一切の出生前診断はしないという覚書を交わしていたからです。
前半では“制度の側”に立つ存在として描かれる山中医師が、後半では着床前診断の緩和を訴える側へと転じていく──その変化が実にドラマチックです。野口家、篠岡家といういわば遺伝病と障害者を象徴するような2つの家族をつなぐ存在として登場するのも、すばらしくドラマ的だと思いました。
保守派の側の人もなかなか魅力的です。そして何よりも、青い芝の会の激烈さです。若い頃の自分なら、彼らの言葉に強く影響を受けていたかもしれない──そう思わせるほどの切実さがありました。その強い主張と、遺伝病の当事者たちの苦悩が、長い時間をかけて少しずつ交わり、変化していく。その過程こそが本書の真骨頂だと感じました。
激しく対立し、到底歩み寄るのが難しいと思えた遺伝病の患者と障害者差別を糾弾する勢力、そして優生思想が複雑に絡み合いながら、明るい兆しが見えるようなエンディング。上質なドキュメンタリーこそが持つ醍醐味です。
医療の進歩、テクノロジーの進歩による変化をポジティブに受け止め、その中で追いついていない制度を整えていくことを訴えるというのが、私たちメディアの使命であると痛感しました。
[書き手]寺園慎一

1982年NHK入局。2024年NHKを定年退職。主にドキュメンタリー番組を制作してきた。現在、外部プロデューサーとして「映像の世紀バタフライエフェクト」の制作を担当。「映像の世紀バタフライエフェクト」は、2022年第70回菊池寛賞を、第60回ギャラクシー賞特別賞を受賞。これまでに制作した主な番組は、「ハーバード白熱教室」「君が僕の息子について教えてくれたこと」「東京リボーン」「AIでよみがえる美空ひばり」「東京ブラックホール」「映像記録・関東大震災」「山口一郎・うつと生きる」など。
賛成派、反対派、どちらのキャラクターも魅力的で心揺さぶられる
私は長くNHKのドキュメンタリー番組の制作に携わってきました。制度や国家の論理に翻弄される“ひとりの個人”に寄り添うこと──それはドキュメンタリーの王道であり、私自身が大切にしてきた視点でもあります。
下山進さんの『命を選ぶ 遺伝病の運命に抗ったある女性の物語』は、まさにその王道を真正面から貫いています。一気に読みました。綿密な取材に裏打ちされた説得力に圧倒されました。
この本は、遺伝性の病気を時代に伝えないための医療技術「着床前診断」が日本に導入される30年の過程を描いたノンフィクションです。
賛成派、反対派、どちらもキャラクターが魅力的で、難解な部分もつまずくことなく読み進められました。
特に、1970年代に活動した脳性まひ者の団体「青い芝の会」が、出生前診断の議論にここまで大きな影響を与えていたことは、恥ずかしながら本書で初めて知りました。私も原一男監督のドキュメンタリー『さようならCP』(1972年)をかつて見たことがあり、あの運動の強烈さに衝撃を受けた経験があります。その主張が社会の判断をここまで長く左右してきたことは驚きでした。
NHKのドキュメンタリーでも、この分野はたびたび取り上げられています。私も2000年放送のNスペのシリーズ「世紀を越えて」で「人体改造の衝撃」というドキュメンタリーを作ったことがあります。IPS細胞の前のES細胞発見を取り上げた番組でした。こういう最先端テクノロジーを扱う場合、NHKではだいたいにおいて、“警鐘を鳴らす”のが伝統的な姿勢です。
ドキュメンタリーの宿命みたいなものです。技術の進歩を必ず疑ってかかるというメンタリティーが染みついています。それはそれで一理あるのですが、この番組を作った当時、そのメンタリティーに窮屈さを私は多少感じており、警告するよりも、まずはこの技術の革新性を伝えたいという気持ちで作った記憶があります。
下山さんのこの本は、そうしたドキュメンタリーが定番としてきた考え方を、圧倒的な取材と論理展開で覆しています。「最終的に決めるのは、第三者ではなく当事者自身であるべきだ」というシンプルで強い論理が、読者の心にまっすぐ届きます。
そしてもうひとつ引きつけられたのが、登場人物のキャラクターです。網膜芽細胞腫という遺伝病の連鎖に苦しむ主人公の野口麻衣子さんの一家の物語はもちろん感動的なのですが、最も心揺さぶられたのは、山中美智子医師でした。
山中医師は、神奈川県立こども医療センターの産婦人科医でしたが、この本のもうひとりの主人公篠岡一実(かずみ)ちゃんを薫さんが出産した際の担当医でした。
一実ちゃんは重度のダウン症として生まれてきますが、母親の薫さんは出産までそのことを知らずショックをうけます。そして救命のための緊急手術を両親が拒否するのです。
山中医師が、羊水検査をできなかったのには理由がありました。1976年に神奈川県知事が、「青い芝の会」と一切の出生前診断はしないという覚書を交わしていたからです。
前半では“制度の側”に立つ存在として描かれる山中医師が、後半では着床前診断の緩和を訴える側へと転じていく──その変化が実にドラマチックです。野口家、篠岡家といういわば遺伝病と障害者を象徴するような2つの家族をつなぐ存在として登場するのも、すばらしくドラマ的だと思いました。
保守派の側の人もなかなか魅力的です。そして何よりも、青い芝の会の激烈さです。若い頃の自分なら、彼らの言葉に強く影響を受けていたかもしれない──そう思わせるほどの切実さがありました。その強い主張と、遺伝病の当事者たちの苦悩が、長い時間をかけて少しずつ交わり、変化していく。その過程こそが本書の真骨頂だと感じました。
激しく対立し、到底歩み寄るのが難しいと思えた遺伝病の患者と障害者差別を糾弾する勢力、そして優生思想が複雑に絡み合いながら、明るい兆しが見えるようなエンディング。上質なドキュメンタリーこそが持つ醍醐味です。
医療の進歩、テクノロジーの進歩による変化をポジティブに受け止め、その中で追いついていない制度を整えていくことを訴えるというのが、私たちメディアの使命であると痛感しました。
[書き手]寺園慎一

1982年NHK入局。2024年NHKを定年退職。主にドキュメンタリー番組を制作してきた。現在、外部プロデューサーとして「映像の世紀バタフライエフェクト」の制作を担当。「映像の世紀バタフライエフェクト」は、2022年第70回菊池寛賞を、第60回ギャラクシー賞特別賞を受賞。これまでに制作した主な番組は、「ハーバード白熱教室」「君が僕の息子について教えてくれたこと」「東京リボーン」「AIでよみがえる美空ひばり」「東京ブラックホール」「映像記録・関東大震災」「山口一郎・うつと生きる」など。
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