「単線」で語れぬ害虫駆除丹念に描く
本書はいわゆる「害虫」に対する防除の歴史を、社会の流れや思想的背景を含めて、そこに関わった研究者たちの評伝を通して、丹念に描いたものである。中心の主題は天敵を利用する生物的防除であるが、著者が繰り返し述べるように、防除は生物的防除の一本槍で済むものではない。殺虫剤DDTに代表される化学的防除は、常に使われてきたし、今でも使われている。現在の社会状況では、対コロナ政策を考えるとわかりやすい。生物的防除はワクチン接種に相当し、消毒は化学的防除に相当する。それ以外にも、数多くの施策がある。元来その土地にいなかった動植物が入り込むと、急激に増殖して、社会的、経済的な被害が大きくなることがある。産業革命以降、世界に発展した「日の没することのない」大英帝国はアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどを含む、巨大な植民帝国を築き、本国や植民地間の物流が盛んになった。本書の前半はその間に生じた移入種問題を扱う。英米社会が話題の中心となるのは、以上のような背景から当然であろう。
十九世紀後半にアメリカでイセリアカイガラムシが大発生し、柑橘類の樹木に深刻な損害を与える事態が生じた。当時の農務省昆虫局長チャールズ・ライリーは、このカイガラムシがオーストラリア原産であることをつきとめ、現地に研究員を派遣し、天敵のベダリアテントウを発見する。本書の表紙カバーの図はこのテントウムシである。ライリーはこの虫を研究室で増殖させ放飼(ほうし)することによってカイガラムシを抑え込んだ。
その後、日本でもイセリアカイガラムシに対し、ベダリアテントウが放飼され、抑制に成功している。評者は小学生のころ虫捕りをしていて、この虫が初めて網に入った瞬間を今でも忘れていない。普段見ている日本古来のテントウムシとは、なにか感じが違ったからである。単純に表現できないが、その土地の昆虫たちの色彩や紋様には「その土地らしさ」があって、慣れてくるとそれがわかってくる。ベダリアテントウは「日本らしく」なかったのである。だからこそ記憶に残ったが、いまはネットで世界各地の虫を見ることができ、入手すら可能だから、子どもたちにこうした感覚は育ちにくいだろうと思う。
第五章「棘のある果実」ではウチワサボテンに対する天敵の導入が紹介される。昆虫に対する昆虫ではなく、植物に対する天敵である。この例はイセリアカイガラムシ防除と同じように天敵の導入が成功したハッピーエンドの物語である。もちろんそのあとに「ただし」が付く。ワクチン接種の後に、副作用が徐々に問題になってくるのと似たようなことである。
第九章「意図せざる結果」は、化学的防除と生物的防除の関係を扱って、大切なポイントとなる。
私たちがより多くを学べるのは、必然の失敗からである。たとえば、なぜ米国の害虫駆除はDDTで致命的な失敗をしたのか。第七章で紹介したように、農務省の資金不足、短期業績志向の成果主義、基礎研究の軽視、社会的インパクトを求める圧力によって、技術開発が化学的防除だけに集中し、防除手法の多様性が失われたことが遠因だった。そこに戦争とDDTの登場に企業の利潤至上主義が重なり、一時的な成功と安全性への過信が招いた失敗だったと考えられる。農薬しか選択肢のない中で、慢性毒性や環境負荷に無知ならば、当時のほかの農薬に比べて急性中毒のリスクが低いDDTに使用が集中するのは当然だった。
この文章は、単に化学的防除の失敗を論じたものとして、読み飛ばされるべきではない。さまざまな社会的施策、とくに生物としてのヒトが関わる問題では、しっかり参考にすべきであろう。少子化問題などを論じるときの立場として応用できるはずである。
生態系とはいわば立体的な網の目のようなもので、これをあえて扱おうとする困難がこの部分によく表現されている。話は「ああすれば、こうなる」という具合に単線的、一直線には進行しない。
じつはこの書評を書くのは、難儀だった。自分で選んだのだから仕方がないが、内容を紹介しようにも、話が単線にならない。著者の主題が書き方と一致している。つまり形式と内容がともに網の目構造をしているので、まとめて紹介しづらいこと、この上ない。読んでいただけば、各部分はすらすらと楽に読めるはずだが、まとめようとすると、手のひらから逃げてしまう。
さらに思う。近代社会は単線的な論理構造で処理できることは、おおむね処理してしまったのではないか。それでは処理できないことが「問題」として浮上している。人の社会なら戦争、自然が対象なら環境問題。ところが持ち合わせている論理が単線でしかない。それ以外に「語り」の方法がない。言語はもちろん単線である。本書を読みながら、しみじみとそれを感じてしまうことになった。