「寅さんはヤクザではない」憤慨
コロナ禍を越えこの五月には浅草寺の三社祭がほぼ四年ぶりに従前通り開催される。焼きそばやりんご飴を売り捌く三寸屋台も賑わうだろう。ところが売り子の「テキヤ」はいま危機に瀕しているという。「フーテンの寅さん」でお馴染みの、あのテキヤだ。コロナ禍で縁日がなかった、イベント企画会社が運営するキッチンカーに「庭場」(営業場所)を取られた、といった理由は容易に思いつく。本書は別の論点を指摘する。2010年頃に各自治体で施行された「暴力団排除条例」(暴排条例)だ。
寅さんは暴力団じゃないだろ、とのツッコミが聞こえそう。ところがこの条例では、警察が認定する「密接交際者」は即「暴力団関係者」となる。暴力団の資金源になったと警察がみなせばアウトで、本書には「被害者」が登場する。
テキヤをヤクザと同一視するのは「得心いかない」、と著者は憤慨する。挙げられた相違点は、一つひとつの商品を対面で売るのがテキヤ、非合法に手を染めるのがヤクザ。怖れるのはテキヤが保健所と食品衛生法、ヤクザは警察と暴排条例。祭神はテキヤが中国の「神農」と「黄帝」、ヤクザは日本の「天照大神」と「八幡神」「春日大社」。庭場のあるテキヤはヤクザのような抗争をすれば商売できず、要は商売人と博徒では稼業が違うのだ、と。
著者はインタビューを通じて「人はなぜヤクザになるのか」を学術的に探究、博士号を取得した社会病理学の研究者である。うつ病のリハビリを兼ね、地元のテキヤ組織に従事した経験を持つ。今回は二人、テキヤの元関東事務局長と、人形師兼深川の帳元(親分)を継いだ娘から、濃密な人生を聞き出している。
物語から浮かぶテキヤ社会の仕組みはこうだ。新入りは親分の下で修行しテキヤの資格を得る。ニワ主(庭場の親分)は祭りを迎えた寺社から許可を取りテキヤから露店の出店申請を募る。ネタ(商品)を確定、庭場でバイ(商売)する場所をテイタ割り(出店配分)し、出店料を集め寺社に納める。テキヤは三寸(小屋)を組み材料を運び込み、最終日は元通りに綺麗に掃除する。
親分には本家分家やその上の神農連合会という上下関係があり、寺社の庭場は利害が調整される。高価な熊手を買った人には他店まで加わって三本締めするのもこの人間関係あってこそだ。
寅さんはテキヤ一本の稼業人(親分を持たない旅人)。旅先の初対面の同業者には作法通りに口上(アイツキ)する。「故あって、親、一家持ちません、人呼んでフーテンの寅と発します」というあれだ。こうして旅先の庭場でも商売ができる仕組みである。
著者の視線はテキヤが暴力団ではないことの釈明に集中している。だが評者には別の境界も気にかかる。いなせな袢纏(はんてん)に法被、木組みの三寸、熊手に三本締めが生み出す幻想的な風景が、祭りを祭りたらしめている。三寸がキッチンカーに入れ替われば、木造で成り立つ数少ない伝統景観は瓦解(がかい)していく。テキヤはたんなる小売業ではない。
著者はテキヤを「祭りという場、縁日という空間をプロデュースする専門家」と呼ぶ。けだし名言。密接交際者を申告し伝統文化の担い手として生き残ることを望む。巻末には著者蒐集(しゅうしゅう)によるテキヤとヤクザの貴重な隠語集も掲載。