庶民の暮らし、驚きに満ちた推論
日本人は戦国時代をどう生きたのか。大河ドラマ好きなら信長や秀吉、家康の合戦を空で言えるだろう。彼らが国制を変えたのも事実である。けれども彼ら英雄たちはどんな意味で「日本人」の代表なのか。圧倒的多数は庶民なのだ。その庶民が食物を調達し、食器や武具を作り、時に戦に従軍したからこそ武将たちはドンパチできたのである。それでも庶民は権力者から一方的に搾取され抑圧される存在と想定されてきた。何故だろう。
「文献史学の方法論による構造的問題」だ、と著者は言う。文字記録は客観性が高いが、現存する文字記録の範囲内で歴史を復元しようとすると、文字で記録された武将や寺社の権力者だけが歴史を動かしたように見え、文字に記録されない庶民の暮らしには想像が及ばなくなる。
この問題はすでに1970年代に指摘されていた。文献資料だけから「平安時代になると……俗人一般のなかに、『そうじもの』(精進物)が料理として登場」したと述べる著名料理文化論者を近藤弘という食物味覚研究者が糾弾し、俗人一般の料理は上層のおこぼれではない、日本列島の味覚文化を支えたのは人口の90%を占める民衆だ、と主張している(『日本人の味覚』中公新書、1976年)。近藤は膨大なインタビュー調査を実施し、庶民の食の分布図を描き出した。
けれどもインタビュー調査にも限界がある。存命の証言者への調査でたどり返せるのは大正昭和といった近過去までで、15世紀後半から16世紀にかけての「戦国時代」は遙か彼方にある。それに対し著者は、納税や訴訟等の文字資料を起点とし、そこに植物学、水産学、建築学、林業史、窯業史の知見や考古学調査を付け加え、大胆で緻密な推論を展開する。中世日本において庶民が自然や環境という「生態系」から受けた恵みとしての「資源」をいかに活用し生き延びたかという「生業(なりわい)」論である。
対象は「越前国極西部」、福井県南西部で越前海岸沿いの30~40キロとその内陸の山村。森林に囲まれ燃材豊かな地域から越知(おち)神社への納税一覧には、液状のウルシ、屋根材のカヤ、ブナを成形した木器、芋粥にするヤマノイモや地下茎もデンプンとして食べるワラビ、それに斧持参での従軍奉仕が並んでいる。
コメが乏しくても複数の食物を生産し、木材加工技術を修得し、燃材を切り出して海岸に運び食塩と交換した。支配者が竹や木の伐採を許可制としたことから、神木まで切り出し筏(いかだ)で搬出するほどの過剰な需要があったと推測される。越前焼を大量生産して庶民向けの安価な消費財に供しようとする平等(たいら)(越前町)の窯の大型化があったらしい。越前焼は海路で北海道から島根まで運ばれている。
推測は動的で驚きに満ち、山と海が隣接する村々は自給自足で閉鎖的といった先入観が打ち砕かれる。庶民は海山の生態系から恵みを受け、技術革新に挑み市場を開拓した。森林で使う斧持参で従軍する一方、資源の利用権を行政に認めさせている。受け身で搾取されるどころか自発的かつ複合的に生業を選び、権力からも保護を引き出すしたたかさがある。
平易な文章でミクロな記録からマクロな社会・生態システムを読み解く歴史学の最前線だ。