書評
『桧原村紀聞: その風土と人間』(平凡社)
遠き村、近き村
数馬、川乗はまあ読めるとして、笛吹、人里というのはどうだろうか。いずれも東京都西多摩郡檜原村にある地名で、ウズシキ、ヘンボリと読む。檜原村も〈ヒバラ〉という人もいるけれど、〈ヒノハラ〉。知っている人にはいまさらだろうが。
地名の読み方というのは、そこまで足を運んだときにはじめて教えられて、へえ、いい地名だな、と嘆声をあげれば土地褒めにもなることだし、それに優る知りかたはない。
今週紹介するのはそうした言挙げの本。瓜生卓造の『檜原村紀聞』。
秋川は静かに流れていく。瀬に早み・淵に淀み・潺湲(せんかん)たる水音が、山襞に木魂を返す。
と書き出される。難訓講釈でいい間のふりをしているつもりでいうわけではないが、〈潺湲〉という見慣れない漢語に、ずいぶん昔の本と思う人がいるかもしれない。だが初版はたった二十年前の昭和五十二年。頁を繰っていっても平易な、読み易い文章が続いて、むずかしい漢字が使われるのは出だしだけだ。
読み進むと、こんな引用がある。「私は今、多摩川支流南秋川の上流の数馬(かずま)村のひなびた宿の座敷に火鉢を擁して、秋川の潺湲たる音を耳にしながらすわっているところだ」。田部重治が大正九年に書いた『数馬の一夜』の出だしだという。
瓜生は戦争中の学生時代に、檜原のことを最初に書いた、当時の法政大学教授田部重治の文章で村を知ったことが縁で、後年この本を書くことになった。『紀聞』の出だしの文章は、だから先人への挨拶なわけだ。こういう気配りがまずある本だから、諸事行き届かないわけはない。
土地に対して行き届くというのはとにかく歩くこと、と言わんばかりに歩きまわる。瓜生には『日本山岳文学史』という著書もあり、歩くことにはまったく頓着しないように生まれついている、とも言っている。
檜原は大きな村だ。東京二十三区でいちばん大きな世田谷区の二倍の広さがある。東京のチベットと呼ばれたりするが、自然の恵みが全村にこぼれている。村の八割が秩父多摩国立公園に属す。瓜生が最初に檜原に足を向けたのは山に登るためだった。檜原には、南北二つの秋川が東西に流れる。街道には山がせまり、空が狭い。しかし、いったん山に登ると眺めはひらけ、多摩の尾根歩きが満喫できる。
だがこの山男は風光を愛でるだけではない。檜原を隈なく歩いて村人たちの生活をつぶさに見、古老に話を聞く。昔の生活は辛かった。畠仕事、山仕事、蚕を飼い、馬を曳く。炭を焼く。毎日食うことに追われていた。だがそう言う古老の笑顔は福々しい。
檜原にくると、しばしば元気な老人に出会う。七十ぐらいかと思うと、八十をすぎている。
そういえば、柳田国男も人里(ヘンボリ)に健在だった百二歳の翁の話を聞きにいった。夕方、柳田はがっかりして宿に戻ってきた。人里の翁は何を聞いても、忘れたの一点張りだったそうだ。
檜原の人はぶっきら棒で愛想がない。口先のお世辞など論外だ。村の商店は村の人でなく、たいていよそ者が経営している。瓜生は、もどかしそうにそう書いているが、じつは共鳴しているのだ。その共鳴音が、文章の端々に〈潺湲〉とひびいている。
ある土地に入れこむというのはどういうことなのだろう。人が土地を選ぶのか、土地が人を選ぶのか。読後には、一作家と檜原村の晴朗な関係がくっきり浮かんで、うらやましい。
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