書評

『長崎丸山遊廓 江戸時代のワンダーランド』(講談社)

  • 2024/08/26
長崎丸山遊廓 江戸時代のワンダーランド / 赤瀬 浩
長崎丸山遊廓 江戸時代のワンダーランド
  • 著者:赤瀬 浩
  • 出版社:講談社
  • 装丁:新書(368ページ)
  • 発売日:2021-08-18
  • ISBN-10:4065249600
  • ISBN-13:978-4065249604
内容紹介:
10両程の身代金(約100万円)を背負って商売をはじめ、運と実力があれば揚代だけで年間1000万円を超え、プレゼントに至っては一度に数百万円単位で得た。その収入は本人の貯蓄のみならず家族や親… もっと読む
10両程の身代金(約100万円)を背負って商売をはじめ、運と実力があれば揚代だけで年間1000万円を超え、プレゼントに至っては一度に数百万円単位で得た。その収入は本人の貯蓄のみならず家族や親戚、出身の地域社会まで潤すことができた。娘たちだけが持っている可能性を生かしたサクセスストーリーが丸山遊女にはついてまわったのである。
長崎は対外貿易港であったが、そこで取引される製品に長崎で生産されたものはなく、また貿易に携わる商人も、もっぱら京大坂の大商人であった。言うなれば長崎は「場所」を提供し、貿易の事務手続きを請け負いその手数料を得るだけで、「商売」の主役ではなかった。手をこまねいているだけでは貿易の「上がり」は長崎住民の頭の上を通りすぎていくだけだった。対外貿易の「上がり」をできるだけ長崎に落とさせる、そこに他の都市の遊廓とは異なった長崎丸山遊廓の存在意義はあった。長崎において遊女が特別な存在とされたのは、なによりもまず、都市長崎があまりにも小さく、あまりにも貧しかったからだった。地場の生産力の不足を補うために都市に貿易の利益を還流させるという重要な役目を担っていたのが遊女たちであった。つまり、遊女は長崎の第一の「商品」だったのだ。
丸山遊女の多くは長崎市中や近郷の貧しい家庭の出身であった。「籠の鳥」として、親元からは切り離され、孤独な生を営むことを余儀なくされていた吉原をはじめとする他の遊廓とは異なって、長崎の場合、ほとんどの遊女は実家と密に連絡をとり、遊女となった後も地域社会の構成員としての意識をもちつづけていた。また奉行所をはじめ、都市をあげて遊女を保護し、嫌な仕事は拒むことも可能だった。長崎の街は一つの運命共同体であり、住民の生活が成り立つようにするためには、他所から訪れた商人が長崎で得た貿易の利益を丸山で揚代や贈物として吸い上げ、そのようにして得た利益を回して貧しい借家人まで潤してゆかなければならなかった。そのような「トリクルダウン」の手段として、丸山遊女の果たす役割はすこぶる大きかった。それゆえ、現代の価値にして数千万円の収入を得る可能性もある遊女は、むしろかならず、長崎市中の出身者でなければならなかったのだ。
本書では、このような視点のもと、丸山遊女が当時の人々からどのように見られていたかについては今日的な視点から性急に判断を下すことを避け、当時の人々の気持ちが想像できる資料をもとにして論じていきたい。

「裏の国際貿易」莫大な富の行方

徳川日本は「鎖国」をしていた。日本人の海外渡航はほぼ禁止だが、長崎・松前(北海道)・琉球(沖縄)・対馬の四つの貿易口(ぐち)があり、朝鮮の釜山には対馬藩関係者が居留。長崎には、出島と唐人屋敷にオランダ人と中国人がそれぞれ居留していた。鎖国というより東アジア諸国が相互に渡航制限をしく「海禁」体制といったほうがいい。ここまでは高校の教科書にも書いてある話だ。

だが問題は現場の実態だ。我々はシーボルトという医師が長崎にきて日本人に蘭学を教え近代化に貢献したのを知っている。さらに歴史通なら、シーボルトが長崎丸山遊廓(ゆうかく)の遊女とのあいだにおイネという娘をもうけた事実も、イネがのちに西洋医(主に産科)になった史実も知っている。近世後期の長崎は人口6万人。狭い町だ。長崎は貿易の貸座敷だ。海外からオランダ人・中国人が、日本から商人が来て、取引するだけで、そのままでは財貨は長崎にとどまらない。

本書は長崎国際貿易の富が「遊廓」で地元に落とされた実態を詳細に叙述する。長崎には、裏の国際貿易と交流があった。家内人数約600人、うち女性が550人の遊廓があった。「長崎に丸山という所がなければ上方(京・大坂)の金銀は無事に帰宅するだろうに」と井原西鶴が『日本永代蔵』に記すように、地元の10代から20代半ばの女性が国際貿易の莫大(ばくだい)な富を留めていた。オランダ人からラクダを貰(もら)った遊女もいる。ラクダを献上しようとしたら幕府に要らないといわれ、オランダ人がひいきの遊女に与え、ラクダは香具師( やし )が引き取って遊女は高額な反物を得た。

長崎の遊女は出島や唐人屋敷に出向く。江戸や京と違い、廓(くるわ)に軟禁されていない。本書では、長崎の遊女の社会的ステータスが他地域より高かったように書いてある。オランダ商館員たちが年に何回遊女を呼びよせたかわかる詳細な支払い記録もある。商館長の居住棟には専用の遊女控室があり、年に300回近く呼んだ者もいた。1日当たり銀7・5~15匁(もんめ)で今の数万円の揚代(あげだい)だが、白砂糖などを多量に遊女に贈っている。遊女はこれを換金した。長崎には伝統的に砂糖菓子が多いが、きっと遊女の歴史とも無関係ではない。

気になるのは、幕府の長崎奉行所が、長崎の外国人の遊女利用に便宜を図っている点だ。遊女への揚代を日本人より低めにさせ、助成金まで出している。以前、ペリー来航時の幕府側交渉担当者の発言を英文の原典で読んだことがある。「君たちはふんだんに(現地)妻を持てる」などと交渉の初めから幕府側が米国側に言っていて複雑な気持ちになったが、長崎で幕府は「性の提供」についての長い経験を持っていたらしい。本書は、近世の日本国家が性に対してとった姿勢を知る上でも参考になる。

この外国人と遊女の接触では、当然ながら子どもが生まれた。中国人との子どもは日本人の誰かの子として育てられる例が多かった。一方、オランダ人との子どもは父親も特定されて利子を生む財産分与もなされ、長崎の地元役人などになったという。外国人と日本人の間に生まれた子どもが、近世社会で、どのように生活していったのか、今後、さらに掘り下げた研究も可能であろう。
長崎丸山遊廓 江戸時代のワンダーランド / 赤瀬 浩
長崎丸山遊廓 江戸時代のワンダーランド
  • 著者:赤瀬 浩
  • 出版社:講談社
  • 装丁:新書(368ページ)
  • 発売日:2021-08-18
  • ISBN-10:4065249600
  • ISBN-13:978-4065249604
内容紹介:
10両程の身代金(約100万円)を背負って商売をはじめ、運と実力があれば揚代だけで年間1000万円を超え、プレゼントに至っては一度に数百万円単位で得た。その収入は本人の貯蓄のみならず家族や親… もっと読む
10両程の身代金(約100万円)を背負って商売をはじめ、運と実力があれば揚代だけで年間1000万円を超え、プレゼントに至っては一度に数百万円単位で得た。その収入は本人の貯蓄のみならず家族や親戚、出身の地域社会まで潤すことができた。娘たちだけが持っている可能性を生かしたサクセスストーリーが丸山遊女にはついてまわったのである。
長崎は対外貿易港であったが、そこで取引される製品に長崎で生産されたものはなく、また貿易に携わる商人も、もっぱら京大坂の大商人であった。言うなれば長崎は「場所」を提供し、貿易の事務手続きを請け負いその手数料を得るだけで、「商売」の主役ではなかった。手をこまねいているだけでは貿易の「上がり」は長崎住民の頭の上を通りすぎていくだけだった。対外貿易の「上がり」をできるだけ長崎に落とさせる、そこに他の都市の遊廓とは異なった長崎丸山遊廓の存在意義はあった。長崎において遊女が特別な存在とされたのは、なによりもまず、都市長崎があまりにも小さく、あまりにも貧しかったからだった。地場の生産力の不足を補うために都市に貿易の利益を還流させるという重要な役目を担っていたのが遊女たちであった。つまり、遊女は長崎の第一の「商品」だったのだ。
丸山遊女の多くは長崎市中や近郷の貧しい家庭の出身であった。「籠の鳥」として、親元からは切り離され、孤独な生を営むことを余儀なくされていた吉原をはじめとする他の遊廓とは異なって、長崎の場合、ほとんどの遊女は実家と密に連絡をとり、遊女となった後も地域社会の構成員としての意識をもちつづけていた。また奉行所をはじめ、都市をあげて遊女を保護し、嫌な仕事は拒むことも可能だった。長崎の街は一つの運命共同体であり、住民の生活が成り立つようにするためには、他所から訪れた商人が長崎で得た貿易の利益を丸山で揚代や贈物として吸い上げ、そのようにして得た利益を回して貧しい借家人まで潤してゆかなければならなかった。そのような「トリクルダウン」の手段として、丸山遊女の果たす役割はすこぶる大きかった。それゆえ、現代の価値にして数千万円の収入を得る可能性もある遊女は、むしろかならず、長崎市中の出身者でなければならなかったのだ。
本書では、このような視点のもと、丸山遊女が当時の人々からどのように見られていたかについては今日的な視点から性急に判断を下すことを避け、当時の人々の気持ちが想像できる資料をもとにして論じていきたい。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2022年3月12日

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