前書き
『罪と罰の古代史: 神の裁きと法の支配』(吉川弘文館)
古代法の系譜
目には目を歯には歯を─復讐か刑罰か
紀元前十八世紀後半にバビロニアを統治したハンムラビ王が制定したハンムラビ法典には次のような条文がある。「もしある者が人(の子)の眼を潰した時は彼の眼を潰す」(百九十六条)、「もしある者が彼と同格の身分の人の歯を落とした時は彼の歯を落とす」(二百条)。これによって、世界最古級の法典であるハンムラビ法典は「目には目を、歯には歯を」という同害報復(タリオ)を刑罰として定めており、この時代には原始の名残で国家が復讐を認めていたと説明されてきた。しかし、現在では、ハンムラビ法典の制定は復讐の連鎖を防ぎ、刑罰の上限を定めることが目的であり、王権が公に同害報復(タリオ)を刑罰として定めることに意味があったと考えられている。ハンムラビ法典より古い法典も次々と発見されており、紀元前二一〇〇年ごろに制定されたシュメール人でウルの王ウルナンムの法典には「他人の足を切り落とした場合、一〇シェケルを賠償すること」(十九条)、「他人の歯を割った場合、二シェケルの銀を賠償すること」(二十二条)などの規定があり、同法典は刑罰としての損害賠償を定めている。
一般に刑罰の種類としてはムチ打ちなど犯人の身体を傷つけ苦痛を与える身体刑と、財産の没収、罰金、贖罪(しょくざい)金などを科す財産刑がある。西洋法制史では、刑罰の変遷を説明するときに、古くは個人による報復「血の復讐=血讐(けっしゅう)」が一般的に行われたが、国家権力が成長して国家に刑罰権が一元化されると私的な報復は禁止され、さらに刑罰も同害報復(タリオ)から贖罪金授受へと代わり、やがて国家に贖罪金を納める公的罰金刑へと転化するといわれている。
ところが、右の例に限れば、時代の古いウルナンム法典は財産刑を定め、時代の下るハンムラビ法典が同害報復的な身体刑を定めている。ハンムラビ法典とウルナンム法典の違いは、時代の新旧ではなく王権ごとの刑罰思想の差異によるものであろう。実際、ハンムラビ法典は奴隷身分の者への暴行であれば持ち主に賠償金を支払うことを定めているし、ウルナンム法典でも殺人や強盗は死刑と定めている。紀元前五世紀半ばに定められた古代ローマの十二表法にも、「他人に障害が残るような怪我を負わせ、その人と和解できないときには、負わせた怪我と同程度の復讐が許される」と定める一方、「手や棒によって人の骨を折った場合、三〇〇セステルティウスを支払わなければならない」という条文があり、身体刑と財産刑が併存している。
東洋ではどうかといえば、中国唐代の律やそれを継受した日本律では「人に暴行を加え、歯を折り、耳鼻を欠損するなどした場合は、徒(ず)(労役刑)一年」と定めるなど、犯罪に対しては死刑、身体刑、労役刑を科すことを基本としており、財産刑の要素は少ない。また中国でも国家刑罰権が確立する以前のきわめて古い時代には、犯罪に対する刑罰は被害者や家族、あるいは氏族による復讐という形で行われていたはずだが、少なくとも紀元前三世紀の秦漢帝国以降、国家刑罰には同害報復の発想はみられない。
始皇帝によって統一された秦帝国の時代には、刑罰は死刑・労役刑・罰金刑の三種を基本としていた。特に前代にはなかった城旦舂(じょうたんしょう)(旦は長城などの建設・修築、舂は穀物の脱穀作業、主に婦女に科す)、鬼薪(きしん)(宗廟の薪を集める労役)、隷臣(れいしん)(役所の雑役)などの各種の労役刑が盛んに行われた。これは秦帝国が万里の長城や阿房宮(あぼうきゅう)(始皇帝が築造させた巨大な宮殿群)の建設などの大規模な土木工事に大量の労働力を必要としたことや、中央集権制を支える官僚の大集団(約十万人といわれる)への食料(粟(あわ))支給といった経済的必要によるところがあった。漢代以降も皇帝陵や城の造営などに労働力は必要で、労役刑は引き続き需要があったが、罰金刑は労役刑に吸収されて主刑としては姿を消し、唐代には律令法の発達とともに、国家的刑罰は社会の秩序や治安維持を目的とする笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)の五刑に整えられていった。
復讐は正義か犯罪か
中国法では、復讐から賠償へという説明が単純には通用しない。古代中国では『礼記(らいき)』典礼に「父の讐(あだ)は与(とも)に天を戴(いただ)かず」とあるように、儒教は孝の観念に照らして、父兄の仇への復讐を認めている。そのため礼と法との関係がしばしば議論の的になった。唐代の則天武后(そくてんぶこう)のとき、徐元慶(じょげんけい)という人物が、父を無実の罪におとしいれ殺害した県尉(けんい)(地方行政区画である県の警察を担当する官)に復讐する事件が起き、元慶の処罰について意見が分かれた。左拾遺(さしゅうい)(皇帝に諫言(かんげん)する職)の陳子昂(ちんすごう)は礼と刑を両立させる意図から、法に従って、死刑に処し、それから彼の墓にその孝義を褒め称える文を刻むべしと主張したのに対して、礼部員外郎(れいほういんがいろう)(礼楽・教育・国家祭祀などを司った官庁の役人)の柳宗元(りゅうそうげん)は、刑罰と礼は両立しないし、不法な復讐は礼も禁じている。しかし、無実の者が殺害され、訴えても取り上げられない場合、復讐は礼を守り義を行ったものであり、刑を科すべきではないと反論している。
三国時代の魏では、文帝の黄初(こうしょ)四年(二二三)に、国内はすでに平定されており、私的な復讐は認めない趣旨の詔(しょう)が下された。魏律では、故意に人を殺し、あるいは喧嘩のすえに人を殺して、すでに告発された犯人が逃亡した場合のみ被害者の子弟がこれを追って殺すことを認め、犯人が恩赦にあった場合、および過失殺人の場合には復讐を認めないと定めている(西田太一郎『中国刑法史研究』)。
さらに時代が下って、唐律になると復讐に関わる条文は姿を消している。賊盗律(ぞくとうりつ)には「人を殺して死刑判決を下され、その後、恩赦によって免ぜられた者は、郷を千里の外に移す」という移郷(いごう)の規程があるが、これは被害者の遺族による復讐を防ぐために犯人を遠方に移して保護する意図によっているから、復讐を認めないことが原則であったと思われる。裁判権、刑罰権を国家が一元的に保有する法治国家において、私的制裁である復讐を認めることはありえない。しかし、儒教を国教とする漢代以降の中国では、復讐をめぐってしばしば礼と法の関係が問題とされた。
法の目的は何か─古代の罪刑法定主義
ハンムラビ法典、ウルナンム法典はともに傷害、窃盗など刑事犯罪のほか、婚姻や土地所有、相続に関する争いの処罰など刑事民事にわたる広範な問題について定めており、裁判の基準としての役割も果たしていた。何が犯罪となり、その犯罪に対してどのような刑罰が科せられるのかを定めておくことで、裁判の公正性が保たれ、法への信頼性も高まる。裁判権、刑罰権は洋の東西、時代を問わず国家権力の柱であり、いずれの王朝・国家も裁判と刑罰に関わる司法制度の整備には力を注いだ。刑法の基本原則の一つに「罪刑法定主義」がある。罪刑法定主義が明確に意識されるのは啓蒙思想が普及する西欧近代に入ってからであるが、何が犯罪に当たるかを明示し裁判の基準を定めるという点に限れば、ハンムラビ法典の制定も罪刑法定主義に通じるといえなくもない。
この点、日本古代の律令法はより明確である。奈良時代の養老(ようろう)律令の篇目の一つである断獄律(だんごくりつ)の十六条には、「罪を断ずるには律令格式の条文を引用せよ。もし違反した場合は笞(ち)(ムチ打ち)三十を科す」という条文がある。これは裁判官を対象とした規程で、判決には必ず根拠となる条文を引用せよというのであるから、まさに罪刑法定主義を前提としているかのようにみえる。同様の規定は日本律がモデルとした中国律にも見えている。それではバビロニアや古代中国、そして日本の古代法が、いずれも近代的な罪刑法定主義と同様の理念を背景にしていたのかといえば、残念ながらそうはいえない。
本文で詳しく述べるが、近代以降の罪刑法定主義は、法に定めがなければ国王といえども人を罪に問うことはできないという意図が込められており、王の恣意的な刑罰権の行使から市民の人権を守るために生まれた原則である。これに対して、中国律、日本律の罪刑法定主義は裁判官に対して、皇帝が統治の準則として示した法を逸脱することなく、法に従って判決を下すことを命じるものであり、法の制定者である君主本人は法に拘束されることなく、法を超越した判断をすることが可能だったからである。
[書き手] 長谷山 彰(はせやま あきら・慶應義塾大学名誉教授)
『律令外古代法の研究』慶應通信1990年、『日本古代の法と裁判』創文社2004年、『日本古代史 法と政治と人と』慶應義塾大学出版会2016年、著書多数。
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