伝説の名著が20年の時を経てついに復活!
杉作の思いのほとばしりは、どんなに事実に正確な記録よりも映画的で正しい「評論」なのだ
この本の中でいちばん泣けるのは、飯島洋一と田口トモロヲについて記してあるところである。田口トモロヲについてはこんなことが書かれている。「20年前の『ボンクラ映画魂』に載ってなくて悲しかった、載るまで頑張る、みたいなことをたぶん冗談で言ったんだと思うが……いつかトモロヲさんの名前を載せることは、本書にとってプロジェクトXであった」あるいは飯島洋一の項はこうなっている。「前回の1996年洋泉社版『ボンクラ映画魂』、実はこれに飯島さんを入れるかどうか迷いに迷ったが、容量一杯だったため書けなかった。東映の作品に出ている人を基本的には載せた。これは厳しい選択であった。だが、飯島さんは何も言わなかった。言わなかったどころか飯島さんが自分で買った『ボンクラ魂』を何かで一緒にいた深作欣二監督にプレゼントしたのだ」
何が泣いたって、飯島洋一や田口トモロヲの思いである。この仲間、この本に並んでいる人名の一員になりたいと願う気持ち。それは紙幅の都合で割愛されたのだ、と杉作J太郎は書いており、それは間違いではないのだろうけど、いっぽうで選別もある。杉作は自分の「ボンクラ魂を震わせてくれた」男たちについて書いているのであり、飯島洋一や田口トモロヲは、自分と同じように魂を震わせていた人間と、つまり自分と同類の人間だととらえていたのではないか。20年を経て彼らがここに加わることになったのは、杉作J太郎そのものの立ち位置が変化したからでもあるのだ。
『ボンクラ映画魂 完全版』は東映映画を中心にした男優列伝である。かつて20年前に洋泉社から出ていた本が増補改訂完全版として再刊された。ちなみに洋泉社版には「~三角マークの男優たち」という副題がついていたと記憶する(残念ながら本がどこかに行ってしまって出てこないのだ)。完全版の副題は「燃える男優列伝」になっている。つまりすべてが東映だけではないということだ。杉作の許容する世界も以前より広くなった。人間的に成長した(あるいはゆるくなった)のだと言えるかもしれない。
洋泉社版が最初に出版されたときから、本書は東映映画にかんする決定的な書籍とされていた。「研究書」ではない。なぜなら、この本の中では何も研究などされていないからだ。あるいは事典として有用だというわけでもない。事実関係については何ひとつ信用できないし、そもそも経歴や生年をはじめとする基本的情報はまったくおさえていないからである。では何が書いてあるのか? それは記憶である。彼ら「三角マークの男たち」にまつわる杉作J太郎の記憶、記憶とさえも言えないただの思いつきが書かれているのだ。たとえばジャイアント馬場だとこうである。
「『やくざ刑事 マリファナ密売組織』に、タイトルクレジットによると友情出演。ナイトクラブで衆人環視の中、目にも止まらぬ早業で女の服をビリビリに破って強姦しようとした外国人を、あっと言う間に退治した。日本の女性の敵は許さない、みたいなことを言った。胸が熱くなった。俺が今書いた台詞だと胸が熱くならないので、たぶん台詞が違う」
とある。だからこれはまったくなんの役にも立たない(受け売りすらできない)情報だ。夏夕介の項目には、延々と『突撃!ヒューマン』と「ヒューマン・サイン」と名付けられたくるくる回す円盤のことが書かれている。ちびっ子たちの応援によって変身するヒューマンの姿を見て、さすがの杉作J太郎もばかばかしさを禁じ得ない。だがある日……
「だから俺は今、自分に賭けたい。どこまで走れるか。どこまで信じられるか。どこまで円盤が振り回せるか」
と〆られる項で語られるのは杉作の思いのほとばしりである。それは杉作の個人的な思いであって、どんなにおもしろかろうが、夏夕介とはまったく無関係であり、三角マークとはさらに関係ない、と言われるかもしれない。だが、もちろんそうではない。
映画においてもっとも大事なのは記憶であり、記憶こそが映画を作るのである。映画を観るうえでは事実よりも大事なことがある。それはこの本の中では「ボンクラ魂」という言葉で記されているところのものだ。「ボンクラ魂」が燃えることこそが映画にとってもっとも大事なことなのであり、どんなに事実に正確な記録よりも映画的で正しい「評論」なのである。
前書きで書かれているように、インターネットにあふれた情報だけでは決してたどりつくことのできない「真実」がここにはある。
【洋泉社版】